水戸藩の反射炉は、那珂湊の台地にある、製鉄所です。幕末の外国船の打ち払いのための、鉄製の大砲鋳造のために2基建造されたもの。藩主徳川斉昭が、兵器の充実、とりわけ従来の銅製に変えて鉄製大砲鋳造の必要性を感じて、建設を命じた。反射炉とは、いってみれば金属溶解炉。それまでは、鉄鉱石と石炭を一緒に燃やし溶かすことで、鉄を作っていましたが。それでは効率が悪いし、石炭の硫黄分等が鉄の強度を下げてしまう。そこで、石炭と鉄鉱石は別に分けて、石炭を燃やしたときの熱を、耐熱レンガで反射させ、鉄鉱石を溶かしてピュアで、強度のある鉄を作ろうというのが、反射炉です。

安政年間に国内で反射炉が実在したのは、薩摩藩・佐賀藩・幕府の韮山だけで、ここ水戸藩那珂湊は国内4番目です。那珂湊は当時、水戸一の商業港で、地盤が強固であり、燃料の石炭やレンガに用いるレンガの材料である粘土を運搬することに適していて、さらに那珂川の水力も利用したかった。しかし鉄を作る技術は、とても難しかったらしく、薩摩や釜石から技術導入を図ってなんとか作り上げた。

<薩摩藩 尚古集成館の反射炉は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/37074295.html
2019-06-09 13.44.12

元治元年(1864)の藩内抗争(元治甲子の乱・天狗党の乱)の際、この那珂湊が激戦の場所となり、結果的に破壊・焼失してしまいました。1937年に、吾妻台の跡地にほぼ原形どおりにコピー復元されました。当時のレンガの一部も使われているようです。

<水戸藩の光と影 影の部から学ぶことは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/53458089.html
2019-06-09 13.44.26

当時、作られたであろう大砲のレプリカがありました(本物の一門は、偕楽園に展示されているそうです)。30門近く製造されたそうですが、3門を残して、残りはすべて幕府に献上され、台場等に設置されたそうです。ただ、(幸いなことに)1門たりとも実戦に用いられることはありませんでした。非公式ながら、大砲を試射したところ70mしか砲弾が届かなかったとか。黒船と砲撃戦をするには、まったく役に立たない武器でしたが、その後の製鉄・セラミックの技術向上の礎となったことは間違いありません。

<水戸藩の光と影 光の部から学ぶことは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/53458087.html
2019-06-09 13.45.36

1200-1600℃ともいわれる耐火レンガは、現代の耐熱レンガとほぼ同じレベルだそうです。その製造も日本初であり、チャレンジングな目標でした。この那珂湊の吾妻台で、レンガの焼成も行われました。

2019-06-09 13.53.07

反射炉の裏手には、鎌倉時代から続く華蔵院(けぞういん)。歴史あるだけあって、高台から墓地を見下ろすと、お墓が一面に広がっています。表現しずらいですが、美しい。この中には、天狗党の乱、そしてその後の、粛正のやり合いで命を落とした方がたくさんいらっしゃるそうです。

2019-06-09 14.16.21

反射炉の大工棟梁となった飛田与七さんのお墓がありました。宮大工だったそうですが、こんな巨大な建物、しかも木造でなくレンガ造の構造物を作ることを命じられたときは、どんな気持ちだったでしょうか。

2019-06-09 14.16.43