水戸藩は、尾張・紀州と並ぶ徳川親藩です。その水戸藩は、幕末期に、良いこともやりましたが、致命的に悪いこともやってきた。そこから学び、将来に役立てる知恵としなくてはなりません。

<水戸藩の良いこと、はコチラ>
http://www.mikito.biz/archives/53458087.html

<悪いこと>
・天狗党の結成(1855年くらい?)
大日本史編纂の制作にどっぷり使った学者たちは水戸学と呼ばれ、皇室や大義名分に傾倒。徳川斉昭公が庇護する藤田東湖がいたときまでは良かったのですが、東湖の死後(1855年)には押さえがきかなくなります。水戸学の末期の特徴は、相手の話を聞かず、自分の話だけするというもの。自分の論理に酔って天狗になっていることから、他から「人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」「あいつらは天狗になっている」といわれ、それが天狗党の由来だとか(藤田東湖が天狗のマネをしたという説あり)。なんとも、レベルの低い集団ですね。

・桜田門外の変(1860年)
水戸学の一派、尊攘激派と呼ばれた集団の暴走が、大老井伊直弼の暗殺という桜田門外の変を引き起こします。次の老中 安藤信正公が、武力による報復に立ち上がる彦根藩井伊家をとりなさなければ、水戸藩と彦根藩との大規模内戦は避けられなかった。実際、井伊藩邸では、安藤信正が訪れて内戦を止めたときには、既に弔い合戦の準備が完了していました。日本の国益を失うようなテロ行為は、表面上は、脱藩した浪士が勝手に起こしたとされていますが、ついさっきまで水戸藩士だったわけで、明らかに、水戸藩尊攘激派による、国益無視の、自分たちの主張を通すための仕業。

・坂下門外の変(1862年)
水戸藩尊攘激派は、開国政策や公武合体を進めた、老中安藤信正も江戸城登城中に襲います。安藤信正は、聡明で英語も自ら話し、外国使節団と同等以上にわたりあった優秀な官僚だった。公武合体の成功は言うに及ばず、ロシアの対馬占領阻止や、小笠原諸島の日本領有に多大な貢献をしてきた安藤信正公。水戸藩の尊攘激派の考える政策と明らかに異なるのはわかりますが、そんな人材を殺してしまっては、日本の国益のために、ダメでしょう。この大怪我がきっかけで信正は失脚してしまう。その後の幕府トップ人事の迷走、外国交渉の迷走は、歴史が示すとおりです。

・天狗党の乱(1863年)
水戸藩守旧派に対抗するため、改革派の武田耕雲斎・藤田東湖の子 小四郎らが、筑波山あたりで挙兵したのが天狗党の乱。しかしすぐに天狗党内で分裂。「鎮」派は佐幕・勤王、「激」派は倒幕・勤王を主張して譲らず、まっぷたつに分裂。やがて、食糧・金策に困り暴徒集団化し、周辺の村を襲う(もはや、そこに大義はない・・)。水戸一の商業港であった那珂湊もその内戦に巻き込まれ、徳川斉昭の肝いりで、多額の費用をかけて作られた反射炉が焼失。幕末に全国4つしか作られなかったモノですが、天狗党による藩内内戦ですべて焼失。さらには水戸城の弘道館戦争で、本丸・二の丸・三の丸・大手門すべて焼失。自分たちで自分たちの作り上げてきたモノを壊していく・・・何やってんだか・・・

・天狗党の分裂
上記の内戦の後、「鎮」派は、水戸・那珂湊を捨て、慶喜公に面会するために京都へ行軍。しかし道半ば、結局、敦賀で幕府側に投降、全員捕縛の上、劣悪な環境で監禁されたあと、数百人が斬首(800名あまりが、12月の極寒の中、敦賀のニシン蔵に収容され、ほとんどの者が、木製の足枷を嵌められ監禁。真っ暗でニシンの腐臭と便桶の異臭が漂う中、数十名が病死。その後、簡易な取り調べ後、浮浪之徒として300名あまりが斬首された)。一方、「激」派は、筑波に残って1年近く抗戦するも、こちらも結局、捕縛・斬首。結局、天狗党に入って活動した武士のほとんどは、藩内抗争で命を落としてしまった。さらには天狗党の乱の鎮圧後、勝った守旧派(諸生党)によって、天狗党の家族はことごとく処刑された。悲惨。この藩内での恨みは凄まじい。

・戊辰戦争でのどさくさ報復・リンチ
しかし戊辰戦争が始まると、朝廷から守旧派(諸生党)に対する追討令がでて、攻守の形成逆転。天狗党の残党は、水戸藩庁を掌握して報復を開始し、今度は守旧派(諸生党)の家族らをことごとく処刑。その後もしばらくは、水戸藩内における凄惨な報復・リンチが続いたそうです。この藩内での仕返しの連鎖は、あまりに凄まじい。

・内乱による粛正・人材不足
儒教をベースとした水戸学を昇華させ、尊王攘夷運動のきっかけを起こした水戸藩ですが、藩内抗争はあまりにすさまじく、これらの結果、お互いに殲滅戦を繰り返し藩内の主要な人材を、すべて失った。これにより水戸藩出身者が明治政府で重要な地位につくことは、まったくありませんでした。この歴史から学ぶことは、どんなに理論的に正しくても、他人の意見に耳を貸さなければ、世の中は動かないということ。そして憎しみの連鎖は、何も生み出さないということです。

幕末の同時期に、地方藩の若者が決起し、守旧派を武力で破り、藩内を改革派で固めていった例として、長州藩の高杉晋作の騎兵隊があります。彼が起こした「功山寺挙兵」は、少数の若者が決起し、幕府へ恭順する保守派を打ち破り、藩内を掌握していった。見た目は同じようですが、では、長州藩・騎兵隊と、水戸藩・天狗党の失敗とどこが違っていたのでしょうか。私見ですが、天狗党は筑波山などというところに立てこもり、延々を内部で議論をしたり内部闘争して時間を浪費したのに対し、高杉晋作の騎兵隊は、間を置かず電撃的に長州藩の会所を襲撃し占領した。さらに20名弱の決死隊で、海軍局の軍艦3隻を奪取に成功。驚きは、会所襲撃・軍艦奪取ともほぼ無抵抗で、死亡者を出さなかったことです。戦闘現場では、長州藩改革派・守旧派ともに理性的に武力衝突による流血を回避したわけです。ここが、水戸藩と長州藩、天狗党と騎兵隊の最大の違いでしょう。

<水戸藩がやった良いことは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/53458087.html
2019-06-09 12.00.49

そういえば、、、磐城平藩にとって、水戸藩はまさに不倶戴天の敵でした。第一に、安藤信正公の襲撃。当時、老中として幕府の対外外交を一手に引き受けていた磐城平藩主 安藤信正公を江戸城坂下門外で、襲撃し重傷を負わせたのは、水戸藩浪士(坂下門外の変)。この後、幕府の外交はめちゃめちゃになってしまう。

<安藤信正公の生涯は、コチラ>

第二に、常磐炭田の始祖、片寄平蔵の、水戸藩浪士による暗殺。片寄平蔵の早すぎる死の原因については、よくわかっていませんが、「燃えたぎる石 片寄平蔵の物語 植松三十里著」によれば、石炭発見後、たちまち横浜の居留地の一等地に、石炭販売店の大店をオープンさせた片寄平蔵。この成功を妬んだ水戸藩浪士により暗殺されたと記述されています。この後、いわきの石炭産業は、地元資本はほとんどなく、東京資本による経営になってしまう。

<燃えたぎる石 片寄平蔵の物語 は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/37005491.html

こういった歴史を踏まえた上で、未来志向で、我が祖国日本を強くし、次世代がより良く生きられる社会になってほしいと思います。