水戸藩は、尾張・紀州と並ぶ徳川親藩です。しかし他の二藩より石高も低く(尾張の半分くらい)、朝廷の官位も低かった(水戸は中納言で、他二藩は大納言)。一方、水戸藩主は定府(東京在住)を命ぜられ、逆に国元に行く(水戸に帰る)には幕府の許可が必要でした(全国で例がない、参勤交代免除)。他の大名と異なり、いっつも藩主はが江戸にいることも、副将軍と呼ばれた遠因でしょう。その水戸藩は、幕末期に、良いことも悪いこともやってきました。

日本の国益という視点から良かったことは、3点です(というか、3つだけ?)。
①藩そのものが、尊皇攘夷の起点となった
②徳川斉昭公が、肝いりの人財教育をした
③日本の内戦を回避した、15代将軍 徳川慶喜を育てた

①尊皇攘夷の起点
その水戸藩の思想の特徴をひとことで表すと、「尊皇」です。藩成立当時から、藩士は、藩・幕府よりも朝廷を向いていました。徳川御三家でありながら、歴代藩主の多くは、朝廷から正室をもらっていたことや、そもそも佐竹氏が鎌倉時代から支配してきた地域を、地元出身の家来を持たない初代頼房が、水戸藩主として赴任してきたことも原因のひとつかもしれません。

それをさらに進めて昇華したのが、徳川光圀が命じた大日本史編纂です。助さん(佐々木助三郎)が全国を行脚して取材し、格さん(渥美格之進)が水戸で執筆を担当。神武天皇からの天皇家の治世が書かれ、完成には約250年を要した遠大なる歴史書です。儒学を独自進化させたこの学問は、大義名分と尊皇が重視され、後の水戸学派となりました。

幕末に、この水戸学に大きく影響を受けたのが、吉田松陰です。当時、水戸藩の思想の主なプレーヤーであった藤田東湖に会うために、長州からはるばる水戸まで来ています。その松陰先生が開いた松下村塾の塾生たちが、明治維新のキープレーヤーとなったことは周知のとおり。明治維新・尊皇攘夷の起点は、ここ水戸なのです。

<弘道館 水戸学発祥の地は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/49380479.html 
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②徳川斉昭公の人財教育
水戸の弘道館入口正面に飾られているのは、畳1畳分はあろうかと思われる、「尊攘」の揮毫は、幕末に弘道館を作った徳川斉昭公。烈公と呼ばれ、気性が荒かったようですが、人材育成に力を入れ、文武両道を奨励するための弘道館、文化や余暇を楽しむための偕楽園を造営しました。弘道館3万坪?の敷地を確保するために、水戸城内三の丸内にあった12の重臣達をすべて(強制的に)立ち退かせたという、強引さ。

当時水戸藩には、40もの学問所、150もの道場があったそうです。にもかかわらず、さらに巨大な藩校を作って人材を育成しました。藤田東湖の水戸学は、吉田松陰のその後の行動に大きな影響を与えました。ここで徳川斉昭の実子、第15代将軍の徳川慶喜もこの弘道館で学び、学問のみならず現実的な状況分析を学びました。

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大日本史は、編纂当時は、純粋な皇室の歴史書だったのですが、長い編纂の過程で、愛国主義、皇室偏重に傾いていったことが予想されます。200年以上もかけて、多数の学者がどっぷりと、このような思想の歴史書の編纂をしていれば、思考が凝り固まってくるし、建前重視になるのも、わかる気がする。

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徳川斉昭公が、自筆で書いたといわれる「弘道館記」。斉昭公の考えである、神道・武備・儒教・忠孝・文学・衆思等の文字が漢文で並んでいます。

③日本を内乱から回避させた、徳川慶喜を輩出
徳川慶喜は、戊辰戦争で大規模な国内の内戦を避け(大阪城からの松平容保を連れての撤退・江戸城の無血開城)ました。幕府側からは、戦わずして負けた卑怯者のリーダーとのそしりを免れません。一方、内戦を契機とする西洋列強による植民地支配を回避した名君ともいえます。実際に、イギリス(トーマス・グラバー)は薩長に、フランスは幕府に武器を供与し、内戦をあおり、漁夫の利を狙っていたことがわかっています。日本の西洋近代化を、外国資本の侵略を経ないで、達成したという偉業ともいえるわけです。

<トーマス・グラバーが見た長崎港は、コチラ>
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弘道館記には、「国家無窮」の言葉が見えます。教育勅語にある「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」のベースとなったと思われます。

<教育勅語 修身 道徳観は、コチラ>
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「遊於藝」の扁額は、これも徳川斉昭公によるもの。芸に遊ぶという意味で、学問・武道だけでなく文化・芸術もやってね、というバランスのとれたもの。三菱養和会が目指すところとほぼ一致しています。聖徳太子、坂本龍馬、五か条のご誓文等も、最大公約数的にまとめられる。すなわち人々が働くのは国家・社会のため。その為には先人に感謝し、謙虚で、文武の研鑽を積み、文化を楽しもうというもの。日本の偉人たちの精神の根っこは、かなり近似していると思う。

<三菱養和会の三菱三綱領は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/51720764.html
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流石、徳川御三家!畳のヘリは、葵のご紋です!

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長押の金具を、インスタグラムで写真を上げるのが、女子の間で密かにブームなんだそうです???

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近寄って、拡大してみると、金具の穴が、確かにハート型!これは、猪目という魔除けの紋様だそうで、たまたまハート型だったという落ち。でも、明らかにハート型ですね。

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「左近の桜・右近の橘」といえば、京都御所内裏の紫宸殿前庭に植えられている桜とタチバナのこと。建物からみて左側が桜、右側が橘です。徳川斉昭公の正室は、有栖川宮織仁親王の第12王女 吉子女王(徳川慶喜の実母)です。その輿入れの際、仁孝天皇から内裏の紫宸殿から左近の桜の苗を下賜されたもの。まあ、今植わっているのは、その木の3代目らしいですが。

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1時間にわたり、観光ボランティアさんにご案内いただきました。今、全国各地の観光地には市民ボランティアが、現地説明をやってくださっています。やはりあふれ出る郷土愛を持った方が、市民目線での聞きたいことを、解説していただけるのはありがたいです。この弘道館では50人以上の方(主に60才以上のシニアの方)が登録し、案内活動されているそうです。水戸藩側に立った、水戸歴史観をたっぷり、楽しめました!

<小田原城の観光ボランティア>
http://www.mikito.biz/archives/52413332.html
<金沢城の観光ボランティア>
<広島城の観光ボランティア>
<福岡市の観光ボランティア>
<伊勢神宮の観光案内人は、コチラ>
<長崎の観光ボランティア>
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