護国寺は、東京都文京区にある寺。真言宗豊山派の寺で、正式名は神齢山悉地院大聖護国寺。都心にあるお寺ですが、歴史はそんなに古くなく、江戸時代初期の徳川綱吉は母、桂昌院の願いをうけ建立されました。そんなある意味、普通の寺ですが、なんと明治の元勲、三条実美、山県有朋、大隈重信らの墓所があるんです!
不忍通り沿いにある、「仁王門」をくぐり、本堂にむけてまっすぐ歩きだすと、階段を上ります。その途中で、さらに「不老門」をくぐります。
境内には、本堂のほか、多宝塔、月光殿等の多数の建物・伽藍がありました。
護国寺の本堂(観音堂)は、当初小さいものだったそうですが、元禄時代に、単層・入母屋造りの屋根をもつ大建造物に建て替えられ、現在にいたっています。震災や空襲にも耐え、国の重要文化財指定です。
本堂の内部は撮影禁止なので、本堂の外から、参拝がてら撮影。天井には色とりどりの絵柄が描かれていました。本堂の中は拝観が可能で、大日如来座像?、地蔵菩薩立像?、不動明王像?らが安置。
そして!明治の元勲達が眠る場所でもあります。まずはひときわ大きな墓所を持つ、大隈重信。独立の鳥居と、塀と門でロックされた墓所でした。いわずと知れた早稲田大学創始者であり、第8代・第17代内閣総理大臣です。佐賀出身で、当時の薩長以外から初の首相。2度の首相になってからは、党内抗争と薩長の妨害等の首相おろしで、相当いじめられました。現代にも一脈、通じるところがあります。亡くなったときの葬儀は、日比谷公園で国民葬が行われた。
そのそばに、三条実美の墓所。こちらも独立の鳥居と、塀と門でロックされた墓所。幕末の尊皇攘夷派の公家の筆頭。八月十八日の政変(薩摩藩・会津藩らが連動したクーデター)で、長州藩への七卿落ちを経験しましたが、明治政府では太政大臣を歴任した、明治の元勲です。こちらも国葬。
維新三傑のひとり、山県有朋の墓所。上記の2人のように鳥居はありませんが、しっかりとした石塀で囲われていました。近くにある目白の椿山荘は、山県有朋の別邸だったので、こちらに葬られたのかもしれません。大隈重信と山県有朋は、生まれ年も没年も同じ、明治の元勲。しかし、大隈は肥前藩出身で山県は長州藩出身と、まず出自が違う。さらにかたや政党政治、かたや薩長政治。かたや一般市民の人気者、かたや陸軍の大物フィクサー。政争でさまざまなバトルを繰り広げたお二人ですが、死後は仲良く同じ寺に葬られているというのも、何か不思議な感じがしますね。
不忍通り沿いにある、「仁王門」をくぐり、本堂にむけてまっすぐ歩きだすと、階段を上ります。その途中で、さらに「不老門」をくぐります。
境内には、本堂のほか、多宝塔、月光殿等の多数の建物・伽藍がありました。
護国寺の本堂(観音堂)は、当初小さいものだったそうですが、元禄時代に、単層・入母屋造りの屋根をもつ大建造物に建て替えられ、現在にいたっています。震災や空襲にも耐え、国の重要文化財指定です。
本堂の内部は撮影禁止なので、本堂の外から、参拝がてら撮影。天井には色とりどりの絵柄が描かれていました。本堂の中は拝観が可能で、大日如来座像?、地蔵菩薩立像?、不動明王像?らが安置。
そのそばに、三条実美の墓所。こちらも独立の鳥居と、塀と門でロックされた墓所。幕末の尊皇攘夷派の公家の筆頭。八月十八日の政変(薩摩藩・会津藩らが連動したクーデター)で、長州藩への七卿落ちを経験しましたが、明治政府では太政大臣を歴任した、明治の元勲です。こちらも国葬。
維新三傑のひとり、山県有朋の墓所。上記の2人のように鳥居はありませんが、しっかりとした石塀で囲われていました。近くにある目白の椿山荘は、山県有朋の別邸だったので、こちらに葬られたのかもしれません。大隈重信と山県有朋は、生まれ年も没年も同じ、明治の元勲。しかし、大隈は肥前藩出身で山県は長州藩出身と、まず出自が違う。さらにかたや政党政治、かたや薩長政治。かたや一般市民の人気者、かたや陸軍の大物フィクサー。政争でさまざまなバトルを繰り広げたお二人ですが、死後は仲良く同じ寺に葬られているというのも、何か不思議な感じがしますね。
敷地