これまで、新政府軍の立場から作られた歴史観が、日本史の教科書に掲載され、通史として教えられてきました。だからこそ新政府軍は「官軍」と呼ばれ、逆側の幕府・奥羽越列藩同盟は「賊軍」と呼ばれてきました。しかし、あらためて歴史を検証してみると、幕府・奥羽越列藩同盟の方に、義や理があったことがわかっています。また新政府軍が語る歴史に虚偽があったことがわかっています。

この本は、編者が福島民友新聞編集局であり、独立の立場のマスコミではあるものの、会津・二本松・磐城の立場を理解した方々による、こちら側からの歴史観を公正に提供してくれています。ありがたい。こういった維新本を待っていました。

そもそも幕府は、260年あまり大きな内戦や他国との戦争もしないで政権運営してきました。そして(官僚主義等の問題があったにせよ)幕末の西欧列強の国力・技術力の彼我の差を理解し、段階的な開国に向けて尽力していました。それを「尊皇攘夷」というワンフレーズのスローガンの下、長州・薩摩は勝手に暴走し対外戦争を勃発させ、攘夷が現実的でないことを実感すると「尊皇攘夷」を、政局で「倒幕」にスローガンを変え、政権奪取したもの。孝明・明治天皇の時には、偽の詔勅を乱発。さらに戊辰戦争初期の鳥羽・伏見の戦いでは、事前に長州で偽造制作しておいた偽の錦の御旗を使っています。

それまで会津藩は、松平容保公の下、孝明天皇の忠実な部下として物心ともに働き、京都守護職を務めました。孝明天皇陛下からは、その証として御製(和歌)・震顫(手紙)をいただいています。

<孝明天皇陛下から松平容保公に贈られたという御製>
たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠のこころをよろこひてよめる
やはらくも 猛き心も 相生の 松の落葉の あらす栄へむ
武士と 心あはして 巌をも つらぬきてまし 世々のおもひて

こんな心のこもった和歌を送られている武士は、松平容保公しかいません。尊皇・官軍という意味では、会津藩=松平容保公を置いていないでしょう。

<明治維新という過ちは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/51799280.html
2018-10-06 08.23.16

では、どうして会津藩が、「賊軍」となったのか。私見ですが、新政府軍にとって幕府・会津藩の義は、政権奪取とその後の政権運営、権威付けに邪魔だったからだと思います。

長州藩にとって、会津藩は宿敵だった。というのも長州は1864年の禁門の変(蛤御門の変)で、孝明天皇のいる京都御所を攻撃しましたが、強兵の会津藩兵に撃退されているんです。それがきっかけて第一次長州征伐が開始され、長州藩は降伏しました。また薩摩藩にとっても幕府は関ヶ原の戦い以来の宿敵だった。というのも関ヶ原の戦いで島津義弘公は、敵中突破で薩摩帰還という勇猛果敢な戦闘をしたものの、結果的には圧倒的に不利な状況でほとんどの兵を失う惨敗でした。これを臥薪嘗胆するために、平成の今でも毎年「妙円寺詣り」という祭りが開催され、島津義弘公の敵中突破を偲び、薩摩剣士隼人の甲冑姿で20kmも行軍しているくらいです。

 ちなみに「維新再考」の題字の書は、いわき遠野の金澤翔子美術館の館長 金澤翔子さんです。
<金澤翔子美術館の日本茶カフェ 飛翔庵は、コチラ>