磐城戊辰戦争150年記念展示会が、ラトブ産業創造館で開催中。新政府軍が戦争を引き起こした背景、奥羽越列藩同盟が応戦した大義、その内戦の結果の戦後処理の影響等がわかります。昨今、戊辰150年という節目を契機として、幕末・維新にかけての歴史の検証がなされつつあります。先人たちがなぜそのような行動を取ったのか、その結果を引き継いでいる現代の我々は何をすべきか等を考えます。

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本邦初公開?の資料が多数出展されています。その多くは磐城平藩・湯長谷藩・泉藩藩士の末裔が、しっかりと保管しつづけてきたものです。これまで公開されていなかったこのような貴重な資料が、磐城戊辰戦争150年記念という旗印の下、集められ公開されたことは、非常に意義があると思います。今回の出品のために貸出いただいた方々に感謝です。

写真は、磐城平藩士の陣羽織・陣笠・具足です。戊辰戦争の際に実際に使われた現物とのこと。

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福島県立博物館収蔵の、慶応4年7月13日の磐城平城に対する総攻撃の戦絵図。西軍が下の方(尼子橋)から、磐城平城に攻め上がっています。中央左手の薬王寺台にも西軍が陣取り、さらに本丸方面へ進軍しています。六間門櫓あたりでは砲撃により火の手があがっています。

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泉藩の本多家に関連する資料も充実していました。目を引くのは「本多家馬印」と「赤玉」です。泉藩本多忠壽公が老中格になった際に、槍の先につけて登城したのだとか。鐙や鞍も展示されていました。

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泉藩士であることがわかるよう付けたと思われる「肩章」。

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「西郷どん」を見ているだけではわからない、教科書が偏った歴史観であることがわかるはず。血が通った先人の思いを知り役立てることは、これからの未来を見通す上で必須だと思います。磐城高校生?とおぼしき女子が見に来ていました。ぜひ、若い世代に見て感じて欲しい。

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禁門の変で、御所を襲った長州藩は、京都守護職松平容保の精兵、会津藩に撃退されました。その恨みが、戊辰戦争において、決して会津藩を許さなかったといわれています。会津藩を救うために、東北の諸藩は、連盟で西軍に対して複数の嘆願書を出しています。要は、降伏謝罪による事態の収束を目指していたということ。
・会津藩家老名による「嘆願書」
・仙台・米沢藩主連名の「会津藩寛典処分嘆願書」
・白石会議の結果としての「諸藩重臣副嘆願書」

にもかかわらず、西軍の下参謀の世良修蔵は、これを却下。嘆願書を突き返し、戦争の実戦を命じます。防衛戦としての奥羽越列藩同盟が成立し、幕府の譜代(老中も出してますし)である磐城平藩・泉藩・湯長谷藩もこれに参加することになります。時間的に余裕がなく、十分な武器の調達がないまま、実戦となってしまったわけです。

いわき地方は、関ヶ原の戦いで敗れ(上杉景勝征伐に参加しなかったため、所領を没収)、さらに戊辰の役でも敗れました。日本全国でも、国内の大きな戦で2連敗している地域は、そう多くなく、それがいわき人が、地域史をあまり重要視しない遠因なのかもしれません。

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西軍が使用していた、前装洋式銃。戊辰戦争には、旧式の火縄銃も使用されましたが、両軍とも洋式銃を手に入れて戦っていました。戦傷者数300名弱に対し、銃砲傷が8割、一方、刀傷は1割に満たなかったそうです。また、負傷者に対する死者の割合は、銃砲傷が原因死は1割を超えているのに対し、刀傷の原因死はほとんどいなかったそうです。これは戊辰戦争が、刀ではなく銃砲で行なわれていたということでしょう。

ちなみに奥羽越列藩同盟の武器入手先は、横浜のスネル(オランダ人?プロイセン人)。戊辰戦争が起こると上海や香港から武器弾薬を運んできたそうですが、磐城平藩が面する太平洋側は、西軍に封鎖されていますから、武器調達には苦労したと思います。日本海側の新潟、そして会津藩経由で調達したようですが、磐城平城落城の大きな原因のひとつが、鉄砲の弾切れであったといわれています。今も昔も戦争に勝つには、武器弾薬食糧、いわゆるロジスティックが重要ということの証左です。ちなみに西軍の武器購入先は、幕末の政商トーマス・グラバーです。彼が坂本龍馬を通じて、薩摩・長州に大量の武器供給を行ったことは、良く知られています。

<トーマス・グラバーが見た長崎港は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/51813247.html
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奥羽出張病院、すなわち日本初の西洋式野戦病院が、市民向けの西洋医学に基づく治療をしたのが、ここいわき平の性源寺です。西洋医学に基づく外科治療が広まったきっかけとなった戊辰戦争ですが、それがこのいわきで行われていたという歴史は、いわき市民が日本全国に誇ってよいことだと思います。

<性源寺 奥羽出張病院は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/51324020.html
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奥羽出張病院で使用された医学書は、そこで治療にあたっていた笠間藩藩医草野得柄(とくへい)と弟万吉らが参照していたのでしょう。その原本が草野氏の末裔によって代々、保管されてきました。また当時の医療器具も、保管・展示されていました。

<いわき近代医学の事始め展 奥羽出張病院は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/40263976.html
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磐城平藩の戊辰戦争降伏状(原本)がこちら。安藤信正とその号「鶴翁」の名前と花押が見られます。原本がなぜ、東軍側にあるかというと、一度、正式に降伏文書を出したものの、「兵器悉差上」という文言を加えるようダメだしがはいり、書き直しとなったからです。副士代理の真木光(戊辰戦争時の恭順派は儒学者・軍事掛)が持ち帰ったそうです。

<安藤信正の時代 マンガいわきの歴史からは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/21841045.html
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いわき側から見た戊辰戦争の関する資料は、多数残されています。しかしその解析や紹介が、これまで十分であったとはいえないと思います。戊辰150年を契機に、われわれ自分たちの先人の思いや行動を知り、役立てていくことこそが、その供養になるはず。

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戊辰戦争で、小名浜港内で砲撃戦があった事実。東軍の陸地からの砲撃により、西軍の軍艦「富士山」に命中していたことを始めて知りました。

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磐城平藩の最後の藩主、安藤信勇公の直筆の書の展示がありました。晩年は、学習院で書道教授を務め、また皇太子嘉仁親王(大正帝)の教官であっただけあって、さすがの達筆です。
 
<磐城平藩 安藤信勇 最後の藩主は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/36153045.html
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注)上記写真の撮影は、係員の方に許可を得ております。