「歴史は勝者が作っている」という前提で、明治維新の背景を独自の視点で解説した、原田伊織氏の「明治維新という過ち」の続編です。前著は、吉田松陰をテロリストと決めつけ、明治維新に影響を与えた水戸学をけちょんけちょんに断罪している本でしたが、今度の続編は、幕臣側からの視点です。国体を維持しつつ漸進的な開国を目指し、港湾整備や軍事力の増強を計画的に進めてきた、良識ある幕臣たちの活動。これらは、「明治維新=正、幕府=悪」という単純な歴史観の下では、歴史的に完全に葬りさられてきました。

当時は、隣国の中国では、イギリスによってしかけられたアヘン戦争(1839年)での5港の開港そして、香港を割譲させられました。その後のアロー号事件(1856年)により、英仏に対する賠償金の支払や、円明園(清代に築かれた離宮)で略奪や焼払いを受けました。最終的には、天津の開港、イギリスに対し九竜半島を割譲させられました。そんなイギリス・フランスが強大な軍事力を背景に日本に出兵する可能性をもほのめかして、江戸幕府に圧力をかけていた上での外交交渉には、危機せまるものがあったと思います。

そんな中、老中阿部正弘の決断により、江戸幕府は歴史的な対外政策の転換を行い、対外強調路線に踏み切った。その後の大老井伊直弼は、「開国vs攘夷や尊皇vs幕府」の理念的・教条的な対立からの「会議は踊る、されど進まず」でなく、江戸幕府に委ねられていた「大政委任」の政治システムを踏襲し、「決められる政治」にした。その間に、阿部正弘が登用した岩瀬忠震・水野忠徳・小栗忠順やの幕府の若手官僚が、軍事力を背景にした英・仏・露・米と激しくやり合って、近代日本の基礎を構築しつつあった。
それをストップさせたのが、勤王・尊皇攘夷・倒幕・王政復古のスローガンを掲げた薩摩・長州勢力。機運に乗じて、政権を奪取したけれど、現実の政策としては、幕末の幕臣たちが築きつつあった富国強兵・殖産工業政策の踏襲でした。

<明治維新という過ちは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/44171957.html 
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・岩瀬忠震(外国奉行) 日米修好通商条約に署名。講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力。ロシアと日露和親条約締結。

・水野忠徳(外国奉行) 日英修好通商条約、日仏修好通商条約に署名。アメリカのハリスと英国の初代駐日外交代表オールコックが組んだ米英連合を相手にし、壮絶な通貨の交換比率交渉(内外価格差を利用して、日本から大量の金小判の流出を招いた、ハリスとオールコックは多額の差益をフトコロに得た)を展開し、鋭い知性でハリス、オールコックとやりあった俊英。小笠原諸島に赴き検分し、日本領であることを確認させる。

・小栗忠順(外国奉行) 横浜に幕府の製鉄所(現在の米軍横須賀基地)を作り、明治期の国力を支えた。その功績が逆に恐れられたのか、戊辰の役では東征軍に真っ先に殺害される。明治期になって、大隈重信が言った言葉は、それを表しています。「我々が今行っていることは、小栗の単なる模倣に過ぎない」と。

・阿部正弘(老中)
日米和親条約の締結により対外協調路線を敷いただけでなく、列強と外交関係を持つことにより技術導入を図り、それを通じて列強に対応しうる国家体制を造りあげるビジョンを持っていた。軍事力を付けるための講武所や長崎海軍伝習所の創設、西洋砲術の導入・推進、造船技術向上のための大船建造の禁の緩和、洋学研究教育機関としての蕃書調所の開設等を実施。これらの富国強兵政策は、明治の日本の手本といっていいでしょう。そして最大の功績は、小栗忠順らの若手幕臣を育成・東洋したこと。
(唯一の失策は、日米和親条約の締結の前に、朝廷の意向を伺い、大政委任の原則を破ったことと、諸大名にも意見を諮問してしまったことで外様大名の幕政参画の道を開いてしまったこと)

・川路聖(勘定奉行・海防係)
不凍港を求めるロシアの代表プチャーチンと外交交渉し、軍事力をバックにしたロシア、それがない我が日本というハンデがありつつも、粘り強く交渉し、日露和親条約締結にこぎ着ける。

<ヴェルニー公園と小栗上野介忠順は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/38926432.html