性源寺(せいげんじ)は、いわき市長橋町にある禅宗・曹洞宗の寺です。幕末には、官軍に本堂が接収され、日本初の西洋式の野戦病院が開設されました。市民にも西洋式の医療が施されたという点では、日本の地域医療の先駆けとなった場所です。なお、当時の建物はもらい火で全焼してしまい、現在の本堂は昭和になってから建て替えられたものです。
当時の院長、関寛斎院長一行15名が写っている記念写真です。複写を遺族関又一氏が、性源寺に寄贈したものとのこと。後段中央で堂々としているのが、関寛斎氏。関寛斎については、生家のある千葉県東金市や、開拓に尽力した北海道陸別町では偉人として、大きく顕彰されています。
<東金市での顕彰は、コチラ>
http://www.city.togane.chiba.jp/0000001284.html
<陸別町での顕彰は、コチラ>
https://www.rikubetsu.jp/kanko/sekikansai/
その左隣が斉藤龍安(竜安)。斉藤竜安は戊辰戦争の際、西軍の軍医として軍医頭の関寛斎らとともに平の長橋町性源寺に設けられた臨時病院(奥羽出張病院)に勤務しました。その後、明治5(1872)年6月も創設された、磐前県病院(平町一町目)に加わり、中心の医師として地域医療に尽力されてました(この磐前県病院は、明治12(1879)年に、福島県平病院となり、地域医療の中核となります)。その後、平町に永住することを決め、古鍛冶に「齋藤医院」 を 開業しました。明治26年には、発足した磐城衛生会の会長や、明治39年には石城郡医師会の発起人となりました。いわきの西洋医療の事始めをした方というべき偉人のひとりです。
関寛斎の書いた「奥羽出張病院日記」について、そのご子孫である関内幸介氏が、昨年に解説本を出版されました。題字は、関寛斎の手記にある筆跡そのままだそうです。
性源寺には、戊辰戦争で戦死した官軍の藩士22名が埋葬されたそうです。藝州藩10名、因州藩6名、長州藩2名、伊勢藩2名、岩国藩1名、下総藩1名。これらは性源寺の過去帳(埋葬時の戒名を付けるときに必ず記載し、記録もの)で確認されたもの。官軍が接収した寺だけに、官軍兵士しか葬られていないところも、興味深いですね。
この性源寺に、日本で初の西洋式野戦病院が設置されたことは、地域の誇りです。その当時の病院旗が、東京お茶の水の医学教育歴史館に保存されています。
<奥羽出張病院旗は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/46121310.html
戊辰戦争で政府軍の野戦病院として開設されたのが「奥羽出張病院」です。はじめ平潟(茨城県北茨城市)に開設されましたが、戦線の移動に伴い、平長橋町の性源寺に移りました。おおまかな経過としては、以下のとおり。
・慶應4(明治元)年6月8日
関寛斎が、奥羽出張病院頭取に任命される。
・同年6月17日
平潟の地福院海得寺に奥羽出張病院開設。
・同年7月13日
磐城平城落城
・同年7月22日~
小名浜へ移転し、立花見龍宅他十軒余の旅宿に分宿。
・同年7月27日
平長橋町の性源寺に奥羽出張病院開設。
・同年9月4日
大村益次郎から「平大病院」と呼称するよう命令。
・同年10月25日
病院の引揚げ開始。
・同年11月8日
東京到着。野戦病院としての役割は終了。
この地に奥羽出張病院が開設されたことの顕彰碑が、昨年末に完成・設置されました。
この地に奥羽出張病院が開設されたことの顕彰碑が、昨年末に完成・設置されました。
当時の院長、関寛斎院長一行15名が写っている記念写真です。複写を遺族関又一氏が、性源寺に寄贈したものとのこと。後段中央で堂々としているのが、関寛斎氏。関寛斎については、生家のある千葉県東金市や、開拓に尽力した北海道陸別町では偉人として、大きく顕彰されています。
<東金市での顕彰は、コチラ>
http://www.city.togane.chiba.jp/0000001284.html
<陸別町での顕彰は、コチラ>
https://www.rikubetsu.jp/kanko/sekikansai/
その左隣が斉藤龍安(竜安)。斉藤竜安は戊辰戦争の際、西軍の軍医として軍医頭の関寛斎らとともに平の長橋町性源寺に設けられた臨時病院(奥羽出張病院)に勤務しました。その後、明治5(1872)年6月も創設された、磐前県病院(平町一町目)に加わり、中心の医師として地域医療に尽力されてました(この磐前県病院は、明治12(1879)年に、福島県平病院となり、地域医療の中核となります)。その後、平町に永住することを決め、古鍛冶に「齋藤医院」 を 開業しました。明治26年には、発足した磐城衛生会の会長や、明治39年には石城郡医師会の発起人となりました。いわきの西洋医療の事始めをした方というべき偉人のひとりです。
写真に写っているこの医療チームは、いわき外から来た西洋医学のプロフェッショナル集団ですが、右端のちょんまげ・和服姿の2名だけは、いわき人。小野亀吉さんと関内半兵衞さんという当時の平の豪商で、この関寛斎チームを地元からサポートしたおふたりです。
関寛斎の書いた「奥羽出張病院日記」について、そのご子孫である関内幸介氏が、昨年に解説本を出版されました。題字は、関寛斎の手記にある筆跡そのままだそうです。
性源寺には、戊辰戦争で戦死した官軍の藩士22名が埋葬されたそうです。藝州藩10名、因州藩6名、長州藩2名、伊勢藩2名、岩国藩1名、下総藩1名。これらは性源寺の過去帳(埋葬時の戒名を付けるときに必ず記載し、記録もの)で確認されたもの。官軍が接収した寺だけに、官軍兵士しか葬られていないところも、興味深いですね。
この性源寺に、日本で初の西洋式野戦病院が設置されたことは、地域の誇りです。その当時の病院旗が、東京お茶の水の医学教育歴史館に保存されています。
<奥羽出張病院旗は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/46121310.html