幕末から明治維新にかけて、かつて、「磐前県(磐前懸 いわさきけん)」が存在していました。いまの福島県浜通り地方です。1872年1月に設置、その後福島県へ統合されてしまい、1876年8月に廃止になり、4年あまりしか存在しなかった県です。磐前県の県庁所在地は平(たいら)でした。そんな磐前県を復活できないものか。

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考えてみると、福島県は浜通り・中通り・会津地方それぞれに気候も歴史・文化・食習慣も別で、地勢的・距離的にも一体感に薄いです。浜通りはむしろ茨城県の沿岸と、気候・文化・食習慣等の親和性が高い。これは、現代のいわき人が、映画を見るのにひたちなかへ行き、デパートの買い物は東京銀座に行き、行動範囲にそもそも郡山や福島は選択肢に入っていないことからも伺えます。再度、歴史を振り返り、浜通り地方(いわき市及び双葉8町村ほか)は、団結して福島県から独立し、再度、「磐前県を復活」すべきではないか。

未来会議 vol.17「浜通り合衆国〜富岡D.C.首都宣言。大体中央で集まってみる。」なんて冗談とも本気ともとれる催しが、開催されたようです。
http://bit.ly/2CQgIJQ

東日本大震災での福島第一原子力発電所の災害をきっかけに、福島県の農林水産物の買い控えを含む、風評被害が伝えられています。会津地方は距離的にも文化的にも全く関係が薄く、原発事故を起こした浜通りのアクシデントを原因とする風評被害に苦しむのは、会津地方の方々に全くもって申し訳ないと思います。ここで仮に、原発立地地域である浜通りの磐前県が、現在の福島県から切り離されれば、会津地方(及び中通り)は風評被害から離脱できるのではないか。また福島第一原発及び、その周辺の帰還困難地域、放射線量が極めて高い地域等のほとんどが磐前県にあり、政府としても原発事故対応するためのくくりとしてのメインの県という位置づけがしやすいのではないか。浜通りとしても、政府からの復興予算配分を受ける際に、福島県をいったん経由して浜通りの市町村へ再配分を受けるよりも、政府から直接磐前県へ予算配分を受けた方が、スピード感を持って事業が執行できるのではないか。

いま、浜通り(いわきや南相馬を含む)では医療人材の不足が深刻です。仮定の話ですが、磐前県が県として独立すれば、一県一医大構想が意味を持ってきます。すなわち1973年に閣議決定された構想で、当時医学部のなかった県に医科大学(医学部)を設置する構想で、それに基づき、無医大県が解消されました。当然、それに従えば、磐前県も医科大学(医学部)を保有する必然性があります。そうです、いわき(浜通り及び茨城県北部地域)に医学部が新設され、地元出身の医師を毎年100名近く生み出すことができるはずです。

<いわきへ医学部誘致活動は、コチラ>

歴史を振り返ってみれば、日本で初めて西洋式の野戦病院であり、その後も市民の救護に当たった日本初の病院が、いわき平長橋町の性源寺に設置された「奥羽出張病院」です。そんな歴史のある地域にもかかわらず、現在の現代地域医療が崖っぷちにたたされています。どういう因果でしょうか。もう一度、先人たちの歩みを振りかえって、われわれの立ち位置を確認すべきだろうと思うのです。

<奥羽出張病院は、コチラ>
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