磐城平城は、譜代の鳥居家により、江戸時代初期に仙台の伊達家への備えとして築城されました。幕末に老中として多大なる業績を残した、安藤信正の居城です。戊申の役で落城、炎上し、明治期の民間への敷地払い下げ等を経て、現在、ごく少数の櫓・石垣を除き、ほとんどの櫓は残っていません。

<安藤信正の多大なる業績は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/44025315.html
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その磐城平城の燃えていない櫓が確認されているのは、掻槌門・不明門(裏門)・長橋門の三つだけ。不明門は東日本大震災で崩壊撤去されました。長橋門は部材として解体され、倉庫保管となっているため、現在、建物として立っているのは、この掻槌門(才槌門・さいづちもん)だけです。

<磐城平城 不明門(裏門)は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/23667674.html
<磐城平城の長橋門は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/35887629.html
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平字掻槌小路あたりにあった掻槌門は、戊辰の役で平城が落城後、近隣の民間に払い下げらたそうです。その門が嫁入り道具のひとつとして、個人間で贈られ、現在の地に移築されたとのこと。東日本大震災で瓦が落ちたり、土台部が腐食したりと、保存や管理は大変だそうです。大きな門の横には、通用口としての木戸があり、実際に移築後も使用されていた時期があったそうです。

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銃眼を模した、デザイン性のあるのぞき窓。
 
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扉は、鉄で補強されています。戊辰の役での銃弾の跡があるらしい。

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門は高麗門という形で、2本の本柱の上に通常切妻の屋根をのせ、 本柱のうしろ(内側)にそれぞれの控柱を立て、 それぞれ対となる本柱と控柱の間にも小さい切妻の屋根をのせたものです。
 
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経年による物理的劣化は否めません。先人の足跡を感じることが歴史的建築物として、残して欲しい。今、磐城平城本丸跡地の公有地化・城跡公園化の計画が進行中ですが、当時から存在しないニセモノの天守閣を作るのではなく、先人が使ったであろう、ホンモノを移築することにより、先人の息吹を後世が感じられるような形にしたいですね。そのやり方のひとつが、磐城平城の掻槌門をいわき市に寄贈いただき、きちんと文化財として補修した上で、磐城平城本丸跡地に移設・展示し、先人の活動を顕彰することではないでしょうか。

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注)所有者の方に許可をいただいて、個人の敷地に入り撮影させていただいています。