弘道館(こうどうかん)は、常陸国水戸藩の藩校です。水戸駅から徒歩数分の場所、かつての水戸城三の丸にあります。幕末の尊皇攘夷ムードのきっかけを作った水戸学、藤田東湖は、有名ですが、意外に歴史は浅い。会津の日新館、米沢の興譲館、幕府の昌平坂学問所等は、江戸初期から活動していて、弘道館ができることには全国にすでに先発している170あまりの藩校があったらしい。藩政改革を進める第9代水戸藩主の徳川斉昭(烈公)が藤田東湖らに命じて1841年に開館しましたが、明治維新とともに消滅し、存在したのはわずか30年あまりと短命。その総敷地面積は約57,000坪と、金沢明倫堂・萩明倫館・会津日新館・米沢興譲館らの、数倍の規模だったらしい。  

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八卦堂の『弘道館記』の碑には藤田東湖草案の建学の精神が漢文で書かれています。藤田東湖は「三千年の歴史に未だかって見ない学校を造り、それを天下一のものにしたと述べたそうです。武道のほかにも、広く諸科学、諸学問が教育・研究されました。かつてはこの場所で、武道の修練があったそうです。

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「尊攘」。いったんは政争に敗れる徳川斉昭公ですが復権し、水戸学の教えに諸藩の有志が共鳴するようになります。吉田松陰は、実際にこの地を訪れ、藤田東湖らの指導と切磋を受け、真の日本に目覚め、国家の運命を担う志士となる活動を開始しました。また松平春嶽・島津斉彬らも、徳川斉昭と交わり、教育・内政・外交・国防等について、国難打開の方策を学びました。

それまで徳川幕府体制を唯一絶対なものと信じ、儒学・朱子学を第一とした当時の常識からは、歴史に培われた尊い伝統を持つ日本に生まれながらその自覚を抱かず、いたずらに本能的欲望を満たし、外国の思想風俗を無批判的に模倣する国民に堕落することのないようにしようとする水戸学の精神(端的には、尊皇攘夷につながるわけで)は、危険な思想ととらえられました。

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設立当初から多くの梅樹が植えられ、現在、敷地跡は梅樹約60品種800本が植えられており、梅の名所となっている。 なお、弘道館と同じく梅の名所である偕楽園は、弘道館に対し、心身保養の場として対に作られたものだそうです。

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徳川光圀が編纂したといわれる「大日本史」が保管・展示されています。神武天皇から後小松天皇まで百代の帝王の治世が描かれており、これが水戸学のもと。全体的に水戸学=大義名分論とする尊皇論で貫かれており、幕末の思想に大きな影響を与えたといわれています。

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思想はともかく、徳川光圀が編纂を開始、死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成したというすごい時間軸です。

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一部ですが、城下町であることの風格がありますね。うらやましい。

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現在の城跡は水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、水戸市立三の丸小学校等建っています。特に、三の丸小学校は校門や塀、校舎が、お城調のデザインですね。

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校庭の門が木組みというのも、シンプルでいいですね。
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水戸城には天守閣というものはなく。御三階櫓という三重櫓がその代わりだったそうです。しかし1945年の水戸空襲により焼失しました。ほとんどの櫓が現存しておらず、水戸城の面影はあまり感じられません。それを受けて現在、水戸城の大手門や二の丸櫓を復元しようという活動があるようです。

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 水戸といえば、水戸黄門、水戸光圀公が。あまりに有名。しかしテレビドラマで、水戸のご老公が諸国を、助さん角さんと旅し、正義の鉄槌を下すストーリーは、完全にフィクション。フィクションといえば、暴れん坊将軍吉宗公のバックには、巨大な江戸城天守閣が出てきますが、あれも完全にフィクションで、実際には三代家光公のときの火災で焼け落ちて以来、再建しませんでした。知らず知らずに、嘘をすり込んでいる、テレビドラマの影響は大きい。

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