吉野義也(ペンネーム:三野混沌)氏の記念碑が、妻の「吉野せい」さんと暮らした、好間にある家の前に設置されています。吉野せいさんといえば、代表作品「洟をたらした神」があまりに有名。実家は小名浜の網元で、娘時代に山村暮鳥らとの出会いで小説も書きました。しかし 詩人、吉野義也(ペンネーム:三野混沌)と結婚して開拓農民になり、荒れ野を切り拓いてやっと飢えをしのいできたのが、この場所です。好きなペンも折った後、詩人が死に、六人の子どもたちも成人して、70歳を過ぎてからペンをとって、「思い出せる貧乏百姓のたちの生活の真実のみ」を評伝に、作品にしたのが、「洟をたらした神」となって作品になったわけです。
吉野義也は、平にキリスト教の伝道師として赴任してきた山村暮鳥の大親友です。洗礼を受け、信仰と詩作の一致を目指して、詩作を続けながら、開墾地で自ら作った野菜を行商するというユートピア的な、自立生活をしたそうです(ただし、貧乏だったらしい)。病がちの山村暮鳥と、好間の菊茸山に家を新築し一緒に暮らしはじめますが、たった10日で、結核患者だと知った住民からの反対により、暮鳥は追い出されます。その好間の菊茸山(菊竹山)と思われるのが、この地です。
<山村暮鳥の詩 「雲」は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/38924768.html
「天日燦して焼くがごとし、いでて働かざる可からず」の意味は、太陽が私を焼くように照り付けている、それでも外に出て働かないわけにはいかないとの意味だそうです。この碑の建立には、初代いわき市長 大和田弥一氏や草野心平氏も関わっており、その存在感の大きさを知ることができました。