戦後70年。戦時中は「磐城飛行場」(別名、長者ヶ原陸軍飛行場)、いわゆる特攻の練習基地として利用された場所に、2011年の東日本大震災で事故を起こした福島第一原子力発電所が立地しています。国の重大危機にかかわることに、同じ場所が関わっていることに因縁めいたものを感じます。

磐城飛行場の敷地は、1940年に旧日本軍が用地を取得し、熊谷飛行隊磐城分校、宇都宮飛行学校磐城分校という形で発足し、磐城飛行場特別攻撃教育隊として使用されました。滑走帯としては1,300m×1,200mの広さがあり、路面はコンクリート・アスファルト舗装ではなく、全面芝張りの滑走路だったようです。これらの資料が、「千の証言展」で展示されていました。

<千の証言展は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/44975262.html 
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終戦間際の8月9日には、双葉沖200カイリに空母ほか16隻の機動部隊が出現し、磐城飛行場は艦載機群による攻撃を受け、格納庫、練習機が機銃掃射で破壊されます。さらに翌10日には、焼夷弾爆撃を受けます。その様子が爆撃している米軍艦載機そのものにとりつけられた「ガンカメラ」にしっかりと記録されています。
 
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それにしても、米軍の写真・動画記録にかける執念には、驚かされます。

<福島県内への攻撃【ガンカメラ】:ログイン要>
http://video.fc2.com/ja/content/20140419Nsd7YptZ/
http://nicogame.info/watch/sm24609503

発電所にほど近い60m程の小高い丘の東電展望台には「磐城飛行場跡」の石碑が置かれているらしい。石碑が立つのは兵舎の跡地だそうです。

「磐城飛行場跡記念碑」(全文)
この地起伏少なき松山に、農家散在す。昭和15年4月国家の至上命令により突如、陸軍で飛行場建設決定、住民11戸移転直ちに着工す。当時、工法はトロッコにスコップで手積み、人力で押し逐次軌道延長整地す。作業人夫は請負業者と郡内外の青年団、消防団、大日本愛国婦人会、学徒一般民等献身的勤労奉仕で半ば強制作業で工事が進められた。この地水源なく志賀秀孝氏の井戸より送水使用す。17年早春、宇都宮飛行学校磐城分校発足。20年2月磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立。日夜猛特訓を受け第一線配属若者が、御国のため大空に散華す。20年8月9、10日、米軍空母艦載機の大空襲で施設破壊亦各地方の被害甚大なり。20年8月15日終戦となる。
その後一部農地開拓す。昭和23年日本国土計画で中部以北塩田化海水陽げ天日式で濃縮、旧長塚駅近くまでパイプで送り製品化す。34年イオン樹脂交換製塩発達のため閉じる。亦塩田以外の地23年旧地主に払い下げ25年植林す。37年東京電力株式会社原子力発電所建設候補地となり39年買収41年本着工現在に至る。思い出大き、この地忘れろるを憂い終戦43回忌に当り大戦で亡くなられた人びとの御冥福と恒久の平和を祈り、兵舎跡地にこの碑を建立す。
昭和63年8月15日
磐城飛行場跡記念碑建立有志会
大熊町長 志賀秀郎
建立発起人代表及び撰文
長者原 杉本正衛
東京電力(株)福島第一原子力発電所所長 
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磐城飛行場は陸軍の所管で、九五式一型練習機(一部九五型三式)約60機が配備されていたようです。木製骨組み合板・羽布張りの主翼と鋼管骨組みに羽布張り(はふばり、要は布製!)の胴体を持つ複座の複葉機で、脚支柱は直接胴体付。機体の色が橙色であったので、複葉機の形と相まって「赤トンボ」と愛称された機体です。磐城飛行場を基地にして海上の漁船を敵艦に見立てて特攻訓練を行ったのでしょう。ただ、艦載の迎撃戦闘機のスピ-ドが600km/h近いというのに、時速300km/hに満たない複葉機が(さらに爆弾を抱えて遅くなって)特攻するのだから、打ち落とされることが多いのは必然でした。それでもこの複葉機で特攻訓練を続けた、我々の先人達の思いはいかばかりか。
 
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注)写真はネット上から拾い集めたものです。