太平洋戦争戦後、占領下の日本では、連合国対日理事会(Allied Council for Japan、略称:ACJ)が置かれました。これは、アメリカ、イギリス、ソ連、中国の4ヵ国代表から成る連合国の合同理事会で、その会議は日比谷のお濠端にある、明治生命館2階の会議室で行われました。明治生命館自身が重要文化財なのですが、2000年以降に、近代的なオフィスビルとして内部がリニューアルされており、私自身2年間ほどこの明治生命館で勤務したことがあるので、思い出深い建物です。当時は6階で働いていましたが、2階にあるACJ会議室は当時非公開でした。その部屋が当時のまま、一般公開されていました。

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対日理事会は、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、インドの7カ国で構成され、太平洋戦争に敗北した日本を連合国が占領するに当たり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の諮問機関として設置されたものです。しかし実際には、マッカーサーが独断専行し、対日理事会としばしば利害が対立したそうです。結果的には、日本へ物質的にも人的にも多大な関与をしたアメリカが主導することにより、アメリカ人である連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーにすべての権力が集中することになりました。

この部屋が対日理事会が開催された部屋。調度品は当時のままに残されているそうです。ここで連合国7カ国の代表がずらりと並んで、日本における権益、自国の利益をかけて、喧々ガクガクの議論をしたのか。そしてマッカーサーがそのメンバーを説き伏せたかと思うと、胸が熱くなります。
 
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明治生命館が立つ丸の内地区は、もとともは三菱財閥の2代目、岩崎弥之助が草ぼうぼうの野原を政府から一括購入し、いちから開発した場所です。当時は、「明治23年、政府はいよいよもてあまして、三井、渋沢、大倉、岩崎らの富豪を招き、懇願的に払下げの相談におよんだところ、誰一人引受人がなく、結局、岩崎が貧乏くじを引いたつもりで、10万7030坪弱を130万円弱(現在の貨幣価値で約130億円)、すなわち坪10円強で払い下げた」。弥之助は、側近に「あんなところを買って、どうするのですか」と言われ、「なに、竹でも植えてトラでも飼うか」と大笑いしたそうです。

明治25年、三菱は一号館、二号館の基礎工事に着手。荒れ野だった兵営跡地を整然としたレンガ造りのオフィス街へと変貌させ(三菱二号館が完成した当時は東京駅がなく、ポツンと中層ビル街が出現したようでした)、大正9年には丸の内は名実ともに日本経済の中心地「一丁ロンドン」となりました(日露戦争前後に東京駅が完成し、東京駅周辺が日本の中心に移りました)。

そんな三菱二号館ですが、1895年築ですから築後30年余りを経過し、建替えられたのが、現在の明治生命館です。1930年に起工し、1934年に竣工。太平洋戦争後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収。アメリカ極東空軍司令部として使用され、対日理事会の第1回会議は明治生命館2階の会議室で行われました1956年に、アメリカ軍から返還されました。
 
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大理石をふんだんに使ったロビーは、ふんだんに建築費が投入された証拠。大理石のいくつかには、アンモナイトの化石を見つけることができました。

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2階には、当時の役員が使用したと思われる食堂があります。整然と並んだ上質の椅子と、柔らかみを帯びたデザインのお部屋ではどんな方々が一緒に食事をしたのでしょうか。昔日に思いを馳せます。

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食堂は、地下フロアにあった厨房室で調理されたものが、サーブ専用のエレベータ3基で運搬されてくる仕組みでした。これにより厨房の熱気や喧騒から離れて、落ち着いて食事をしたのでしょう。現在、地下は有名飲食店がテナントとし入居し、営業をしていますが、オフィスの食堂と地下の厨房が一体でつながっていることは、おもしろい。

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明治生命館にある、もうひとつユニークは設備が「メールシュート」です。要は郵便ポストなのですが、各フロアにあるメールシュートに郵便物を入れれば、専用シュートを自由落下で落ちていき、1階にある集荷箱から自動的に郵便が送られるというものです。これはグッドアイデア。

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1997年、昭和の建造物としては、初めて重要文化財の指定を受けています。

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