曹洞宗大本山 永平寺(えいへいじ)は、福井県永平寺町にあります。曹洞宗では、ここと總持寺が双璧をなす、大本山です。なおその意味は「永久の和平」だそうです。

曹洞宗の宗祖は道元。14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺で、仏門に入りました。「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っているはずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問を持ちます。そして、臨済宗の宗祖である栄西が建てた建仁寺に教えを請い栄西の直弟子である明全に師事しました。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考え、渡宋します。宋での修行で、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」の影響を受けて、4年あまりで帰国。日本へ戻ってから、道元は旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭ってしまいます。

旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒であった越前国の土豪・波多野義重の請いにより、義重の領地のある越前国志比庄に吉祥山永平寺を開山します。度重なる戦災や火災に見舞われているので、当時の建物はなく、現存の諸堂は全て近世以降のものだそうです。 正門をくぐることができるのは、修行僧が入門するときと、卒業していくときの2回だけだそうです。もちろん見学者は不可。 
 
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参道は、さわやか(厳かではない)な木漏れ日に満ちていました。京都の喧騒からは打って変わって、あまりに静か。比叡山から迫害されたとはいっても、電車で1時間以上もかかるような地に開山しなければならなかった。それだけ宗教上の対立の迫害が激しかったということなのでしょう。

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修行僧180名が永平寺に起居して、2年間の修行を積んでいます。永平寺では修行僧を雲水と呼ぶらしい。行雲流水…雲のように場所を定めず、水の流れのように留まらず、ただ一心に修行。

修行僧は定められた規則に基づき毎日の修行に励みます。修行僧にはそれぞれ配役が与えられますが、その配役には、本堂の係や法要の進行係といったいわゆる僧侶らしい役割の他にも、受付係や来客係、宿泊者の係や火防係、食事係や風呂の係まであります。いったん配属されたら向き 不向きに関わらず、その役割を一心にこなすのが大切な修行です。またその合間を見て自らの坐禅修行をします。与えられた配役は一定期間ごとに更新され、人事異動のように、新たな配役がいい渡されるそうです。
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延暦寺ではまさに「立って半畳、寝て一畳」が体現されており、修行僧が起居する僧堂では、1人につき畳一畳ほどの「単」と呼ばれるスペースが与えられ、そこで眠り、食事をし、座禅もします。畳1畳では布団が引けないので、布団をタテに2つ折りにして、シュラフのようにして眠るんだそうです。

これが座禅用座布団、「あんこ」と呼ばれているものです。それぞれ修行僧個人の持ち物のようで、名前が記載されていました。

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永平寺に(京都の寺院のような)きらびやかな国宝や重要文化財は、多くありません。それであってもNHKの除夜の鐘はなぜか、この永平寺。
 
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 お土産に般若心経を頂きました。漢字のみの文章とともに、読み下し文がついているので、なんとなく意味がわかったかのような錯覚。

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