著者のヘックマンは、2000年に労働経済学の計量経済学的な分析を精緻化したことでノーベル賞を受賞している方です。その著者が就学前教育の効果が非常に高いことを実証的に明らかにしています。40年以上にわたって実施した入学前の教育の効果を追跡調査した分析の結果、わかったことは、
●5歳までの教育は、学力だけでなく健康にも影響する
●6歳時点の親の所得で、学力に差がついている
●ふれあいが足りないと子の脳は萎縮する
というもの。感覚的には妥当かもしれませんが、それを第三者的に実証分析したことに意義があると思います。

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 なぜ幼少期に積極的に教育すべきなのか?幼少期に適切な働きかけがないと、どうなるのか?早い時期からの教育で、人生がどう変わるのか?これまで、これらの疑問は個々人の感覚や経験に左右されており、平均的な像が描けていませんでした。著者は、幼少時教育の効果を2つに分けています。

・認知能力:いわゆる学力(算数・国語等)
・非認知能力:やる気・忍耐力・協調性等 
 
幼少時教育は前者が捉えられがちだけれども、実は、非認知能力を向上させることこそが、子供の人生を豊かにすると結論づけています。親の子に対するリアクションや、生活環境等が非認知能力の育成を左右します。同時に、認知能力を高める学習を通じて、やる気や忍耐力等の非認知能力の向上につながることも認めています。自制力が高かった子どもと低かった子どもでは、大人になってからの健康度や経済力にどの程度影響があったかを30年間追跡調査した結果が明らかになっています。

・自制力が高かった子どもは大人になっても、健康度が高かった
・自制力が高かった子どもは、30年後の社会的地位・所得・財務計画性が高かった

これらはアメリカで1960年代に実施された「ペリー就学前プロジェクト」で、現実に比較調査されています。このペリー就学前プロジェクトとは、経済的に恵まれない3-4才のアフリカ系アメリカ人の子ども達を対象に、毎日平日の午前中は学校で教育を施し、週に一度午後に先生が家庭訪問して指導にあたるというものです。この就学前教育は2年間続けられ、その終了後、この実験の被験者となった子ども達と、就学前教育を受けなかった同じような経済的境遇にある子ども達との間で、その後の経済状況や生活の質にどのような違いが起きるのかについて、約40年間にわたって追跡調査をしたという壮大な社会実験です。その結果は・・・
・10才の時点では、就学前教育を受けたグループと、そうでないグループとの間には、IQ(認知能力)の差は見られませんでした。
・40才の時点では、就学前教育を受けたグループは、そうでないグループに比べて、高校卒業率や持ち家率、平均所得が高く、また婚外子を持つ比率や生活保護受給率、逮捕者率が低い
という、驚愕の結果が得られたのです。

就学前教育をやったほうがよいかどうかという議論に対しては、「やったほうが良い」のは当たり前で、大事なのはそのコストに見合う効果が得られるのかという点です。その点でこのペリー就学前プロジェクトについては、就学前教育のコストに対する効果として所得や労働生産性の向上、生活保護費の削減等と定義して、その全体の投資収益率を15-17%としています。驚きの高リターンです。ひとことでいえば、就学前教育はコストパフォーマンスが著しく高い社会投資ということです。

著者が求めるところは、こどもが豊かに(精神的にも肉体的にも金銭面でも)生活していくためには、認知能力・非認知能力いずれもが一定の水準に達していることのほうが望ましい結果を得やすくなる。そして認知能力・非認知能力を高めるのには、一定のコストがかかるが、幼少時のほうが青年時よりも少ないコストで、効果を上がることができるというものです。

これは「こどもの貧困」対策を考える上で、有用なヒントともなります。貧困に対処し社会的流動性を促進(貧困層から中間層への自発的移動)するために、所得の再分配を求める声があります。再分配はある程度社会の不公平を減じることができるものの、それ自体が社会的流動性や社会的包容力(社会的に弱い立場にある人々を排除・孤立させるのではなく、共に支え合って生活していこうという考え方)を向上させません。一方、事前分配(恵まれない子どもの幼少期の生活を改善すること)は、社会的包容力を育成すると同時に、経済効率や労働力の生産性を高める上で、単純な再配分よりもはるかに効果的です。事前分配は公平であり、経済的に効率が良いと、結論づけています。