東日本大震災の教訓を残すために、震災遺構として被災した建物等を、保存するかどうかが被災地各地で議論されています。いわき市においても、100名を超える津波による死亡者を出した薄磯海岸にある、豊間中学校の保存or取壊しで、長期間にわたって、数え切れない議論がなされてきました。津波で亡くなった方、そのご家族、関係者の方々には心から哀悼の意を表したいと思います。
<震災遺構・防災教育は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/30148007.html
この豊間中について、議論は百出したものの、過去を乗り越えて将来を見据えようと、地元住民・いわき市は、震災遺構候補に選定する方向性で、丁寧に根廻しが進められてきました。
<いわき・旧豊間中を震災遺構候補に選定は、コチラ>
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201410/20141008_61004.html
しかし、最後の最後で、大どんでん返し。2014年年末に、校舎のある薄磯地区の会合において、区役員の投票で解体が12票、保存が2票となり、保存反対が決まったそうです。それにしてもいわき全体で、震災遺構をどうするのか議論するならまだしも、数百世帯だけの行政区の役員の投票結果で、豊間中の取壊しの方向性が決まった引き金となってしまったことは、衝撃でした。とにかく、4月以降、取り壊し工事が始まってしまう前に、目に焼き付けておくべく、事前許可を得て、豊間中を訪れました。
<旧豊間中校舎、いわき市が保存断念は、コチラ>
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141217_63014.html
合理的な議論を行わず、問題の全体像を一つの小さな正論から、その場のムードを染め上げてしまう、という日本人の特質を鋭くついた名著、「失敗の本質」を想起しました。
<失敗の本質は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/20737667.html
建物内部は、すべての機器は取り外され、いわゆるスケルトン状態に近い。震災遺構として保存が決定されたときには、震災関連のものを展示するための施設として考えられていたため、いつでも内装を変えられる状態です。
体育館は津波で壁面の大部分が損傷・破壊されましたが、校舎建物は、大きなヒビ等が入っているわけでもなく、内部だけ見れば被災した建物の中にいるとは思えませんでした。普通の休日?と思うくらい、静かな校舎。
3回から、校庭を見ました。まっさらな更地に作業用のプレハブが、いくつか置かれていました。ここは、うずたかく、10m近く高いガレキの山が、震災後長期間にわたって置かれていました。そして画面左側は、プールがあった場所ですが、すでに更地に変わっていました。いずれも、震災・津波被害の現実を、直接、自分の目で見て感じることができる場所として、県外から観光バスや乗用車で来て(県外ナンバーなので、すぐ判別できた)、見て、手を合わせて去るという、光景をたくさん見てきました。一時は、観光バスが常時、停車している頃もあったそうです。いわゆる、教育旅行のひとつでした。
いわきにイエール大学がやってきたときには、「震災を感じる施設が見たい」というリクエストから、当時の豊間中3年生の案内でこちらに案内しました。海外からの旅行客が、いわゆるいわきの観光スポットである、アクアマリンふくしまやスパリゾートハワイアンズに立ち寄らず、この豊間中に訪れたということは、私の中では衝撃でした。
2015年4月からJRデスティネーションキャンペーンが始まりますが、JR仙台支社が作ったプレゼン資料には、いわきで訪れるべきスポットとして、「ハワイアンズ」「アクアマリン」と同格で、「豊間中学校」が紹介されていました。これほどまでに、市外から訪れるべき場所として認知・支持されているにもかかわらず、自らの意志で取壊しを決めてしまったのは、残念というしかありません。
<イエール大学生 いわき来訪>
http://www.mikito.biz/archives/30123299.html
廊下は塵一つ落ちていない。大震災・津波被害があった直後に、徹底的に流入した土砂の掃除が行なわれたため、裸足でも歩けるくらいきれいな状態です。
豊間中の校歌。「太平洋」「塩屋崎」「紺碧の親潮」等、海岸沿いの中学校らしい校歌です。
旧校舎の石造りの表札です。せめてこうした物品は、豊間小横に建設が進められている新校舎に移設し、大切に使って欲しい。
津波が来襲した時刻を、ばっちり記録している時計。これこそ震災遺構に現状保存・展示して欲しかった。
豊間中の校舎入口に取り付けられていた校章。これはいったい、どう処理されるのでしょうか。
<震災遺構・防災教育は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/30148007.html
この豊間中について、議論は百出したものの、過去を乗り越えて将来を見据えようと、地元住民・いわき市は、震災遺構候補に選定する方向性で、丁寧に根廻しが進められてきました。
<いわき・旧豊間中を震災遺構候補に選定は、コチラ>
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201410/20141008_61004.html
しかし、最後の最後で、大どんでん返し。2014年年末に、校舎のある薄磯地区の会合において、区役員の投票で解体が12票、保存が2票となり、保存反対が決まったそうです。それにしてもいわき全体で、震災遺構をどうするのか議論するならまだしも、数百世帯だけの行政区の役員の投票結果で、豊間中の取壊しの方向性が決まった引き金となってしまったことは、衝撃でした。とにかく、4月以降、取り壊し工事が始まってしまう前に、目に焼き付けておくべく、事前許可を得て、豊間中を訪れました。
<旧豊間中校舎、いわき市が保存断念は、コチラ>
http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141217_63014.html
合理的な議論を行わず、問題の全体像を一つの小さな正論から、その場のムードを染め上げてしまう、という日本人の特質を鋭くついた名著、「失敗の本質」を想起しました。
<失敗の本質は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/20737667.html
建物内部は、すべての機器は取り外され、いわゆるスケルトン状態に近い。震災遺構として保存が決定されたときには、震災関連のものを展示するための施設として考えられていたため、いつでも内装を変えられる状態です。
体育館は津波で壁面の大部分が損傷・破壊されましたが、校舎建物は、大きなヒビ等が入っているわけでもなく、内部だけ見れば被災した建物の中にいるとは思えませんでした。普通の休日?と思うくらい、静かな校舎。
3回から、校庭を見ました。まっさらな更地に作業用のプレハブが、いくつか置かれていました。ここは、うずたかく、10m近く高いガレキの山が、震災後長期間にわたって置かれていました。そして画面左側は、プールがあった場所ですが、すでに更地に変わっていました。いずれも、震災・津波被害の現実を、直接、自分の目で見て感じることができる場所として、県外から観光バスや乗用車で来て(県外ナンバーなので、すぐ判別できた)、見て、手を合わせて去るという、光景をたくさん見てきました。一時は、観光バスが常時、停車している頃もあったそうです。いわゆる、教育旅行のひとつでした。
いわきにイエール大学がやってきたときには、「震災を感じる施設が見たい」というリクエストから、当時の豊間中3年生の案内でこちらに案内しました。海外からの旅行客が、いわゆるいわきの観光スポットである、アクアマリンふくしまやスパリゾートハワイアンズに立ち寄らず、この豊間中に訪れたということは、私の中では衝撃でした。
2015年4月からJRデスティネーションキャンペーンが始まりますが、JR仙台支社が作ったプレゼン資料には、いわきで訪れるべきスポットとして、「ハワイアンズ」「アクアマリン」と同格で、「豊間中学校」が紹介されていました。これほどまでに、市外から訪れるべき場所として認知・支持されているにもかかわらず、自らの意志で取壊しを決めてしまったのは、残念というしかありません。
<イエール大学生 いわき来訪>
http://www.mikito.biz/archives/30123299.html
廊下は塵一つ落ちていない。大震災・津波被害があった直後に、徹底的に流入した土砂の掃除が行なわれたため、裸足でも歩けるくらいきれいな状態です。
豊間中の校歌。「太平洋」「塩屋崎」「紺碧の親潮」等、海岸沿いの中学校らしい校歌です。
旧校舎の石造りの表札です。せめてこうした物品は、豊間小横に建設が進められている新校舎に移設し、大切に使って欲しい。
津波が来襲した時刻を、ばっちり記録している時計。これこそ震災遺構に現状保存・展示して欲しかった。
豊間中の校舎入口に取り付けられていた校章。これはいったい、どう処理されるのでしょうか。