正直、礼儀、責任、友情、公益、勇気。これらの美徳は戦後に日本人があえて目を背けてきた面があると思います。これらの美徳を100以上も精選したのが本著です。あえていえば、時代を生き抜く知恵であって、子々孫々に伝えたい物語です。

そもそもどうして、「美徳」であるならば、戦後にGHQにより修身の教育は中止になったのか?しばしば聞かれる、「教育勅語は軍国主義だから、ダメ」は本当なのか?もういちど「修身」が、軍国教育の教科書なのかどうか、マスコミ等の二次、三次情報によらずに自分で確かめる必要があります。実際自分の目で読んでみたら、現代の日本人の常識と異なる部分もあれば、重なる内容もたくさんあることが確認できます。その時代の人は、日本人の先人の足跡に関して、現代人の何倍も詳しかった。ろくに高等な教育を受けていなかった老人世代まで含めて、ほとんどの例外なく日本人の共通認識として持っていたことは、驚異の一言です。よくよく考えてみれば、日本人としてのアイデンティティは、そういう認識や価値観を共有してきたことです。

そんな「修身」が失敗したと結論づけられたのは、①子どもたちから自ら考える力を奪い、押し着せられる徳目にひたすら従順であることのみを求めたこと、②その従順さにつけこんで、権威主義を助長させてしまったことでしょう。 
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<引用>男子の務と女子の務
男子も女子も人として国民として行ふべき道に違いはありません。男子が世の繁栄をはからねばならぬと同じ様に、女子もそれをはからねばなりません。また女子が身もちを慎まねばならぬと同じ様に、男子もそれを慎まねばなりません。 かように、人として国民としては違いはありませんが、男子と女子とによって、それぞれ実際の務めはおのづから別れて居ます。 男子と女子とは生まれながらにして身体も違い性質も違っています。それで見ても、その務めがおのづから違うことは明らかであります。強いことは男子のもちまえで、やさいいことは女子のもちまえです。国・社会・家を安全に保護していくようなことは男子の務めで、家庭に和楽を与え、また子供を養育するようなことは女子の務めであります。 我等の父母が家庭で実際に行っている事は、すなわちこの男子の務めと女子の務めとの主なものであります。父は一家の長として家族を率い、家計を支え、また外へ出ていろいろな仕事をして働いています。母は主婦として内にいて父を助け、家をととのえ、我等の世話をしています。 男子と女子とがよく調和して各その務めを全うしていけば、家も栄え国も栄えます。

かっこいい言葉が流行っています。「つめこみ教育ではなく情操を育む」「個々の良い所を伸ばす」「心の充実」等等・・・。その延長線上で、新たに設けられる「道徳の時間」も薄っぺらなものになってしまうことを危惧しています。道徳を教える前提として、日本人の足跡を知らなければ、あまりにも薄っぺらいモノになってしまうのではなか。道徳の前提として、教えるべき事をきちんと教えていなければ、砂上の楼閣となりかねません。なぜなら、そんな言葉遊びは、子どもの心に響かないからです。筋道として、まずわれわれ日本人のの歩んできた道、すなわち先人達が徳をもって実践された歴史から学ぶのが近道です。そうしないかぎり、道徳の教科は方向性を見失った、切れた凧になってしまうのではないか。