「いわき近代医学の事始め展」が、いわき市暮らしの伝承郷で開催されていて、江戸時代に西洋医学がどのようにいわきに伝えられたかを紹介されています。
1868年幕末の戊辰戦争でいわきは、新政府軍と奥羽越列藩同盟に加わっていた藩の間で激しい戦いが繰り広げられ、戦死者、負傷者が多数出ました。新政府軍が設置した救護所、すなわち野戦病院が奥羽出張病院です。奥羽出張病院は約4カ月間だけ期間限定で開設された西洋医学の先駆けの施設です。医者が足りず、地域から集めて近代医学の教育をしながら手術と手当てに当たった点、地元住民の医療行為も担っていた点が特徴とのこと。
開設者は、政府軍の軍医と病院管理者としていわきに来た阿波藩医の関寛斎ですが、医師が不足していたため、笠間藩藩医草野得柄(とくへい)と弟万吉らが、地元医師として協力しました。なお、笠間藩は、奥羽越列藩同盟の平藩と違って、新政府側でした。
開設者は、政府軍の軍医と病院管理者としていわきに来た阿波藩医の関寛斎ですが、医師が不足していたため、笠間藩藩医草野得柄(とくへい)と弟万吉らが、地元医師として協力しました。なお、笠間藩は、奥羽越列藩同盟の平藩と違って、新政府側でした。
笠間藩藩医草野得柄と弟万吉らの草野家に伝わる医者の教育のために取り寄せたとされる医学書が展示されていました。よくみると「重訂 解体新書」とあります。教科書にも掲載されている解体新書の改訂版です。オランダ語の解剖学書ターヘル・アナトミアからの邦訳書である解体新書は、日本の医学史上画期的な本ではありましたが、初めての西洋語からの翻訳という性質上、誤訳も多かった。その後蘭学・蘭語研究が進んだこともあって、改訂版が出されたわけです。その現物が、いわきの笠間藩藩医が所有し、西洋医学を勉強していたということがわかりました。
その他、草野家に伝えられている貴重な医学書には以下のものがあるそうです。
・増補重訂内科撰要
・遠西医方名物考補遺
・新訂増補和蘭薬鏡
・和蘭内景医範提網
・遠西医範
・舎密開宗
実際に戊辰戦争で使われた砲弾。それぞれ南白土や長橋で出土した現物です。砲弾の中には火薬が詰められており着弾する前に空中で爆発し、炸裂した砲弾の鉄片が敵兵を傷つけたそうです。
関寛斉による「奥羽出張病院日記」という、戦中の手記が残されていて、当時の様子が記録されているそうです。
1868年5月 上野戦争で彰義隊が壊滅、江戸平定
6月 陸前浜街道方面の平定開始。派遣された兵は6,000名以上で、薩摩藩、鳥取藩、津藩、長州藩が主力。
6/13 品川発
1868年5月 上野戦争で彰義隊が壊滅、江戸平定
6月 陸前浜街道方面の平定開始。派遣された兵は6,000名以上で、薩摩藩、鳥取藩、津藩、長州藩が主力。
6/13 品川発
6/16 新政府軍が平潟着。
6/17 平潟に病院開設
6/17 平潟に病院開設
7/1 新政府軍の平城の攻略が始まり、激戦となる
7/13 平城は落城。新政府軍はその後三春へ向けて行軍。7/27 戦闘もなく三春に入城。さらに相馬、浪江、黒木、駒ヶ嶺などで戦闘
戦傷者数300名弱に対し、銃砲傷が8割、一方、刀傷は1割に満たなかったそうです。また、負傷者に対する死者の割合は、銃砲傷が原因死は1割を超えているのに対し、刀傷の原因死はほとんどいなかったそうです。これは戊辰戦争が、刀ではなく銃砲で行なわれいたということでしょう。
注)上記写真は、すべて暮らしの伝承郷の小野館長の許可を得て撮影しています。