福島縣立磐城中学校の校歌は、西村岸太郎校長の発案で明治44年、制定されました。作歌は、福島縣師範学校 国漢科担当教諭の西村岸太郎氏。それに西村校長がみずから加筆修正したそうです。校長自ら作るのは珍しいと思います。作曲は福島師範学校の音楽担当教諭の渡邊貞夫氏でした。

<第一章>
峰は秀づ、赤井嶽、水は清し、夏井川 (みねはひいづ、あかいだけ、みずはきよし、なついがわ)
こゝ磐陽の、學び舎に、あゝ樂し、吾等友がら (ここばんようの、まなびやに、ああたのし、われらともがら)

<第二章>
あやに畏し、天皇の、勅捧げつ、山行かば、 (あやにかしこし、すめらぎの、みことささげつ、やまゆかば)
草むす屍、海ゆかば、水つく屍、ゆめ忘れめや (くさむすかばね、うみゆかば、みずつくかばね、ゆめわすれめや)

<第三章>
眞鐵や溶けん、夏の日も、膚や裂けん、冬の夜も (まがねやとけん、なつのひも、はだえやさけん、ふゆのよも)
自覺の眼、生くる時、本職勵みて、吾等撓まじ (じかくのまなこ、いくるとき、つとめはげみて、われらたゆまじ)

<第四章>
鍛へや腕、この山に、濯げや心、この水に (きたえやかいな、このやまに、すすげやこころ、このみずに)
理想の空は、高くとも、北斗は明し、希望の光。 (りそうのそらは、たかくとも、ほくとはあかし、きぼうのひかり)

太平洋戦争後、第二章は削除され、現在の磐城高校の校歌は、第三章、第四章がそれぞれ繰り上がっています。第二章の意味するところは、一旦天皇のお召しがあれば、いつでも戦場に赴いて死のう、という内容でしたので、戦後にそっと削除されたのだと推測します。 
 
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