ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)を世界文化遺産に登録しました。国内で近代以降につくられた産業施設の登録は初めてです。この富岡製糸場を経営していた片倉財閥は、東京都中央区に本社を置く現在の片倉工業株式会社であり、ショッピングセンター等の不動産運営・賃貸、自動車部品等の機械製造販売、繊維製品の製造販売を行う企業です。実は、現在いわきイオン・カタクラのある場所には、富岡製糸場と兄弟の関係にある、片倉磐城製糸株式会社がありました現在、カタクラの1Fにこじんまりとしたパネル展示があります。

<朝日新聞 2014.6.21は、コチラ>
http://www.asahi.com/articles/ASG6M5Q0TG6MUCLV00F.html


<片倉磐城製糸株式会社の歴史>
1929年 平三倉で、片倉磐城製糸(株) 操業開始
1972年 ボーリング&ゴルフ場がオープン
1976年 ニューライフカタクラ平店がオープン
1995年 いわきサティ開店。
2011年 イオンいわき店へ店名変更
 
平三倉にあった片倉磐城製糸の工場。撮影時点は昭和3年。生糸を納入する市内組合の代表をしていた江尻庄作氏による全景です。片倉製紙ができる前までのいわきの養蚕業は、家庭内手工業でした。市内各地の庄屋様が自ら私財を投じて、畑を開墾し桑畑を作り、蚕を自宅の2階で育てたそうです。自ら育てた蚕・繭を収穫し、敷地内で糸にまで加工していました。片倉磐城製紙では、非効率性を解消するため、市内各地で生産される生糸を一括して買取り、効率的に一括して加工しました。その結果、会社は巨万の富を得ることになったようです。いわき市内各地から、協同組合を通じて生糸の出荷の取りまとめを行なったのが江尻庄作氏です。江尻庄作氏の子孫の江尻兼次氏によれば、三倉の片倉磐城製糸敷地内には、大きな池がありました。その後のボーリング&ゴルフ練習場には残っていましたが、ニューライフカタクラ平店に業態変更した際に、なくなってしまったようです。

片倉磐城製糸工場の遠景の写真を見ると、富岡製糸工場とまではいかなものの、兄弟工場らくし大規模でしっかりした建物群が立ち並んでいることがわかります。これが保存されていれば、いわきに世界遺産登録の可能性があったかと思うと、忸怩たる想いを持ちます。

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(出典:養蚕神社収蔵物より)
 
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 (出典:飯野の歴史より)
 
平三倉にあった片倉磐城製糸の工場の、貴重な内部写真。巨大な紡績機械が、見渡す限り設置されています。当時、人減らしの意味もあって市内各地から女工さんが集められたそうです。いま存命でいらっしゃったら90才もしくはそれよりちょっと上の年齢の方々です。「ああ野麦峠」もしくはNHK連ドラの「アンの花子」の主人公の妹のようですが、実際に片倉磐城製糸の待遇は悪くなかったようです。

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片倉磐城製糸株式会社は,1929年に操業を開始。1930年当時は世界的な経済不況期であり,いわき地方の工業生産額も福島県統計書によれば、停滞していました。1929年当時、いわき市内で従業員100名をこえる工場は、磐城セメント四倉(従業員362)、片倉磐城製糸(同345名)、品川白煉瓦湯本(同161名)、磐陽館製糸場(108名)の4工場だけだったそうです(福島県統計書による)。
 
片倉磐城製糸株式会社の生産には生糸が必要です。その供給源のほとんどを特約店として市内各地から集めていました。その元締めが飯野村の江尻庄作氏です。納入業者の元締めとしてかなり裕福だったようで、私財で「養蚕神社」という神社を建立し、毎年お祭りを開催していたとのこと(現在は、休止中)。

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江尻庄作さんの立像が、養蚕神社の下にありました。市内の生糸の納入を一手に引受けていました。南白土の山裾には、蚕に食べさせるための桑がそこかしこに植えられていたそうです。

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内部には、協同組合のメンバーが記載された額が2枚ありました。いわき市内全域から、繭を集めていたことがわかる貴重な資料です。養蚕には桑畑が必須です。当時は市内全域に桑畑があり、飯野村も山肌に桑畑がたくさんあったそうです(現在は、放置され山林に戻っている)。

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庄作氏の写真は飯野村の収穫作業の写真が残っています。これも当時の貴重な写真。庄作氏の子孫と話してこの写真からいろいろなことが読み取れました。
・撮影場所は、現在の平南白土の公民館周辺
・新川(当時は古川と呼んでいた)の堤防はなかった。当時は流量も少なかったから必要なかった。
・左手奥が、現在のイオンいわき(三倉)にあった、片倉磐城製糸の工場。巨大な煙突が見えます。
・右手奥が、現在のマルト城東店にあった、平発電所。3本の煙突が見えます。ここは磐城炭砿の所有で撤去されたのは昭和52年ごろ。

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この写真には田んぼが一面に広がっていますが、現在は私の自宅も含め、完全な街なか住宅地となっています。つい数十年前には、養蚕が盛んな田園地帯であったことなど、現代の生活では想像もできません。このような事実を伝えていくことが、地域に対する愛着の源泉ではないかと思っています。