いわきの医療・まちづくり公開シンポジウムの開催にあたり、亀田総合病院副院長の小松秀樹氏にご講演いただきました。小松秀樹先生は、現在、亀田総合病院副院長です。東京大学医学部卒業後、山梨医科大学助教授、虎の門病院部長を経て、2010年5月より 亀田総合病院副院長に就任されました。亀田総合病院は、人口3万人の鴨川市という、ある意味人口減少に苦しむ地域にありながら、ベッド数700床、常勤医師が400人を超える、地域医療と高度医療を両立させている、日本を代表する経営をされている病院のひとつです。亀田総合病院は震災直後に、磐城共立病院の人工呼吸器装着患者や市内の知的障害者、人工透析患者を百名単位で受入れてくれた病院です。小松先生は「医療崩壊 立ち去り型サボタージュとは何か」「医療の限界」等の著書を書かれており、医療界で日本を代表する論客のおひとりです。

小松先生浜通りの置かれた状況

 東日本大震災直後、福島県の透析患者、要介護者、人工呼吸器装着患者、知的障害者などを鴨川に受け入れた。筆者はこの作業に関与した。その後、南相馬市の医療再建を支援した。こうした活動を通して、いわき市のときわ会のような活動的な医療介護提供者と知り合うことができた。しかし、福島県に独立自尊の気風が弱いこと、地域エゴをコントロールできていないことが、医療の発展を阻害しているとしばしば感じた。
 
 震災前、浜通りの医師の供給は東北大学と福島県立医大に依存していた。医療の進歩や社会の高齢化のために、医師の需給は逼迫していた。東北大学も福島県立医大も医師の派遣要請に応えきれない状況が続いていた。それでも、福島県立医大の医局には、医師を引き揚げるにもかかわらず、他からの採用を邪魔することがあった。医局は、自然発生の排他的運命共同体であり、法による追認を受けていない。やくざの組織と同様、医局の勢力を他の医局と争っている。外部からのチェックが効きにくいため、何でもありの原始的な権力として行動する。医局出身者以外、あるいは別の大学から院長を採用したり、他の医局の医師を採用したりするだけで、医師を一斉に引き揚げることがある。
 
 日本で評価されている病院は、医師の教育制度を充実させ、自力で医師を育成している。地方の中規模病院でも、元気がよいのは、自力で医師を育てている病院だけである。医師の供給を大学だけに求めてきた病院が苦境に陥っているのは、医局員の数がニーズに対し相対的に減少したことに加えて、医局が医局外の医師の参入障壁になっているためである。
 
 筆者は、2011年9月、南相馬市の医療再建の支援を依頼された。自立を目標に作戦を考えた。自立するには、地域に臨床研修病院が必要である。そのためには、既存の病院があまり小さすぎた。そこで、公立相馬病院と南相馬市立総合病院を統合することを提案した。また、『攻めの医師募集』として、医師30名を募集した。ミッションを明確にして、医師に生きがいと価値を提示した。影響力のある医師12名に呼びかけ人になってもらった。病院は統合できなかったが、南相馬市立総合病院は、臨床研修病院に指定された。金澤院長、及川副院長が元気になり、積極的に発信するようになった。東大医科研の坪倉医師が南相馬市民の内部被ばくを測定し、世界に発信し続けた。亀田総合病院から出向した原澤医師が仮設住宅で診療開始。根本医師が在宅診療科を創設した。東大国際保健のチームによって震災関連のデータが世界に発信された。研修医が2年連続で2名ずつフルマッチ。常勤医師数は震災前の2倍を超えた。
 
 医師を集めるのに、特定大学だけに依存すると、全国区の医師募集はできなくなる。東北地方の大学病院そのものが医師不足なので、大学に頼っても、派遣医師は減少し続ける。医師1名、年間5000万円の費用を要する寄付講座からの派遣が増える。現状では、独立自尊の気概を持って、地域の戦略を考え抜くことでしか、医療提供体制を構築することはできない。

小松秀樹氏
東京大学医学部医学科卒業
山梨医科大学泌尿器科助教授、虎の門病院泌尿器科部長を経て2010年5月より 亀田総合病院副院長
著書「医療崩壊 立ち去り型サボタージュとは何か」「医療の限界」等 
 
出典:いわきの医療・まちづくり公開シンポジウム ご寄稿集