好間地区まちづくり懇談会。興味深いテーマを聴くべく、好間公民館は、満員御礼です。産業遺産として、産業戦士の像、レンガ橋脚、V字谷、つり橋等がある地区なので、どうこれらを使っていくか。テーマは「安心・安全で自然が輝く調和のとれたまち、好間」をめざして」

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質問は、5つ。
1. 産業遺産を活用したいわき市の交流人口拡大について
平成21年から好間ジャンボメニューが10店、13メニューで開始された。震災の影響で第四回フラオンパクが中止し、機運が盛り下がったが、東京都港区と文京区から81名のモニターツアー参加者があり、絵本200冊寄贈があった。JRのグリーン車に備え付けられている車内誌「トランヴェール」にも掲載された。現在、吉田ジャンボメニューは、9店12メニューとなっている。今後どのように交流人口の拡大を図るか。
(回答)
震災前は1000万人だった観光交流人口は、367万人まで落ち込んだが、平成25年は789万人まで回復している。今後は、旅行商品販売奨励事業・マスメディア発信活用事業等を活用して、JRのディスティネーションキャンペーンの素材としていきたい。また来年、太平洋・島サミットが本市で開催される。産業遺産として、産業戦士の像、レンガ橋脚、V字谷、つり橋等の産業遺産は、平成19年4月に経済産業省から近代化産業遺産に指定されている。いわきヘリテージツーリズム協議会と協力していきたい。またいわきサンシャイン博のひとつとしていきたい。

2. 好間のまちづくりについて
「好間わっしょい」は地域のイベントとして極めて重要であり、市からの開催補助金をぜひ継続して欲しい。
(回答)
原則として「まち・みらい創造支援事業」は、イベントの自立を支援するものであり、3年間の時限がある。検討が必要。新たなまちづくり計画のため、支所ごとに地域振興担当員を配置している。

3. 好間第三小学校の児童数の減少などについて
ピーク時の平成34年には、1,005名の生徒が在籍した市随一のマンモス校だったが、平成35年の北好間炭鉱の閉山から生徒数の減少が続き、現在生徒数は28名のみ。来年には半減する見込み。全部で4学級編成、教員数は10名。人口減少の要因のひとつに当該地域のほとんどが市街化調整区域であることである。都市計画変更の可能性はあるのか。通学区域は広域であるが再編の可能性はあるか。生徒の通学の安全性はどう確保していくか。
(回答)
いわゆる都市計画の線引きの見直しは、秩序あるまちづくりの趣旨から、原則として市街化区域の拡大は困難である。ただし地区計画等を活用して開発する余地はある(好間地区で、地区計画を活用していくという事例はいまのところ出されていない)。
通学区域の見直しはオーダーメイドで行うべき。市内では田人・豊間地区で小中学校の学校再編がなされ、三和・川前でも検討中である。こちらは地区として対応すべきで、子供達へよりよい学校環境を提供するため、地区とともに考えていきたい。
生徒の通学の安全性確保については、適宜ガードレールの補修や、横断歩道の再塗装等を実施している。

4. 好間工業団地の環境整備について
324haに及ぶ好間工業団地は、当初19社の進出で始まったが、現在は74社、7,500名が勤務している。業態としては、ハイテク・ロボット・エネルギー・被災企業等である。進出企業は、工業団地協議会を組織し、団地内の公園や遊歩道を整備し、近隣地域の住民に開放している。一方、市内の住宅事情が逼迫していることから、通勤に多大な時間を要している社員もおり、対応を検討してほしい。
(回答)
住宅不足については、土地利用動向調査等で把握はしている。ただ大規模な民間の宅地開発については具体的な事業者は予定されていない。

5. 安全で快適な道路環境の整備について
大畑吊り橋・松坂吊り橋等は、昭和20年前後に炭鉱会社が通勤用に設置し、その後市へ移管された者である。その大畑吊り橋が2月に、ケーブル破損により落橋し、5ヶ月が経過したが、復旧していない。住民は大きく迂回して川を渡らなければならず、不便を強いられている。復旧の見通しはどうか。また、松坂吊り橋の管理はどうなるか。
(回答)
大畑吊り橋の復旧については、幅員が狭いため国の復旧事業採択要件に合致せず、事業費が下りない。今後、市の負担で復旧することを検討する。松阪吊り橋は生活道路として、部分補修を続けながら使っていきたい。

注)上記は、当方のメモをもとに当方が把握できた内容ですので、実際と異なるおそれがあります。正確な情報は、市の公式発表をご参照下さい。

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※京浜工業地帯の重工業化と地域の経済発展を支えた常磐地域の鉱工業の歩みを物語る近代化産業遺産群(出典:経済産業省)

<いわき市内構成リスト>
八茎鉱山関連遺産 八茎鉱山跡 
常磐炭田関連遺産 古河好間炭鉱専用鉄道橋梁 
古河好間炭鉱産業戦士像 
古河好間炭鉱ズリ山(田代ズリ山) 
好間炭鉱隧道跡、鉄道盛土帯、鉄道橋台跡等 
常磐炭礦内郷礦山神社跡、相撲場跡 
弥勒沢炭鉱資料館内展示物 石炭採掘・運搬関連炭車、道具類 
常磐炭礦内郷礦坑口、扇風機上屋、水中貯炭場、選炭場、
三星炭礦大煙突と煙道及びズリ山 
常磐炭礦磐崎礦坑口、石炭積込場、選炭場跡、ズリ山他 
常磐炭礦湯本山神社
常磐炭礦湯本坑第六坑坑口
砿夫の像
常磐炭礦西部礦竪坑櫓
いわき市石炭化石館内展示物 坑口銘板、採炭機械、道具類

常磐炭田(南北約 95km、東西約 5~25km)は、石狩炭田、筑豊炭田に次ぐ規模を有し、石炭埋蔵量は本州最大を誇った。幕末より地元資本による小規模な鉱山経営がなされていたが、1884 年(明治 17 年)、渋沢栄一・浅野総一郎・大倉喜八郎らが磐城炭坑社(後に磐城炭鉱㈱と改称)を設立し、大資本による炭鉱経営が始まった。
1887年には馬車鉄道を敷設し、1889 年には蒸気巻揚機、コルニッシュ気罐、排水機を使用し斜坑開削に着手するなど、設備の近代化を図り、炭鉱経営を軌道に乗せた。これよりやや遅れて、川崎八右衛門を中心とする京浜資本が内郷地区に進出し、入山採炭㈱を設立した。同社は、1944 年に前述の磐城炭砿㈱と合併し、常磐炭砿㈱(現:常磐興産㈱)が設立され、本州東部地区最大の炭鉱となった。
このように、常磐炭田では、明治期以降に相次いで外部の資本が参入し、近代技術の導入や企業統合を経て大規模な鉱山経営が支配的となり。石炭の大幅な増産を果たした。
常磐炭田の北側に位置する八茎鉱山は、1908 年に八茎鉱山合資会社が設立されて以降、近代技術の導入が進められた。主に銅鉱石及びタングステンの材料である灰重石の採掘が行われていたが、第一次世界大戦後の不景気で操業を中止した。これ以降は、経営者を変えつつ、石灰石の採掘が行われていたが、2012年に中止された。
これらの鉱山は、京浜工業地帯に近いという利点を生かし、水戸~東京間が鉄道(日本鉄道海岸線)により直結された後、石炭や金属の供給源として重工業の発展に大きく寄与した。また、日立鉱山の近代化を契機として今日の鉱工業都市・日立の礎が築かれたことや、常磐炭田の豊富な石炭が小名浜に東北地方有数の臨海工業地帯を形成させる契機となったことなど、地域経済発展の事例としても重要な存在となった。

◆閉山後の地域振興:観光業と近年の新たな展開◆
1950~60 年代にかけ、エネルギー革命の進行と採炭コストの増加、公害問題などにより、炭鉱を取り巻く社会経済状況は大変厳しいものとなった。そこで、常磐炭鉱㈱は事業の多角化を図り、常磐紙業㈱、常磐開発㈱などの系列会社を創設するとともに、1964 年常磐湯本温泉観光㈱(現:常盤興産㈱)を設立し観光業にも活路を求めた。
そして、かつては採炭の障害であった温泉を利用する大型レジャー施設として、「常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾート・ハワイアンズ)」を建設し、東北地方に常夏の「常磐ハワイ」を出現させて人気を博し、多くの観光客を集めた。これは、温泉を活用したテーマパークの先駆け的存在であった。
閉山後、炭鉱従事者の雇用主として、常磐炭田と関連が深い日立製作所㈱をはじめ、常磐工業地域が存在したことが大きいものの、観光業により地域の存続を成し遂げた国内では希有な例といえる。石炭業縮小期におけるこのような様子は、2006 年公開の映画「フラガール」により伺うことができる。
一方、近年では、「スパリゾート・ハワイアンズ」という拠点集中型の観光だけではなく、地元の団体である「いわきヘリテージツーリズム協議会」が、「いわきヘリテージ実験ツーリズム」として地域内の炭鉱遺産を巡る観光を企画・実施するなど、近代化産業遺産にスポットを当てる地域内回遊・学習交流型の新たな観光も模索されている。