星薬科大学には、星一専用の歴史資料館が設置され、一般公開されています(平日のみ)。

星一のフレーズで有名なのはなんといっても、「親切第一」。長男にその名をつけるほど、他人に尽くすことで国家の利益を考えていた人でした(ショートショートで有名な作家、星新一は星一の長男、本名は星「親一」。親切第一を略した親一の意味です)。その直筆の書がこちら。

よくみると星一の名前の下に左という字が見えます。これは左手で書いたという意。星一は左利きだった。そしてその横を読むと、「為内田君」と読めます。いわゆる「ためがき」らしく、内田氏が星製薬のフランチャイズ店を出したときに、支援のために直筆を送ったものが巡り巡ってここに展示されています。

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星一のメモ帳も保管されていました。相当のメモ魔だったらしく、雑多なことが書かれています。

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手帳には、メモと予定がぎっしり書かれていました。几帳面な性格が忍ばれます。

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星一の戸籍謄本の原本も展示されています。確かに死ぬまで本籍は、福島県石城分郡にありました。

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星一のパスポート。

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明治43年に郡元売捌所、県元売捌所を設けました。これが後に日本で初めてのチェーンストア方式なり、今日の薬局のチェーンストアであるマツモトキヨシの形態で、京橋に本社がありました。

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明治44年 星一、星製薬株式会社を設立。

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 大正4年 ホシ胃腸薬発売。「ホシの赤缶」として親しまれている芳純芳香胃腸薬です。芳香性、苦味性を持ち、味覚や臭覚を快く刺激し。胃液の分泌を促進して胃腸の働きを助け、すっきりとした爽快感をとり戻すベストセラーです。

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大正10年  星一が星薬科大学の前身である「星製薬商業学校」を設立、これが現在も残る星薬科大学の本館です。同時期に製薬会社として東洋一と言われる規模となる。
 
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星一が付けていた、星製薬の社員章も保管されていました。

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星一が参議院議員に立候補し当選したときの選挙ポスターです。

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最終的には衆議院議員になるのですが、一度は落選を経験しています。落選のときは、いわゆる選挙運動を一切やらず、逆に選挙民啓蒙のために「選挙大学」という小難しい冊子を執筆して配布していたそうです。選挙制度が定着していなかったのでそれを知らしめたいという意義は理解しますが、結果としては受入れられず、落選となりました。

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東京市本郷区に住み、福島県第3選挙区から、昭和17年に衆議院議員に当選したことが分ります。

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星一と野口英世は、同じ福島県人ということだけでなく、星一が資金援助をすることで野口が研究を続けられたという関係です。野口英世が、何度もアメリカ渡航資金を一晩の遊興費に使ってしまい、星一に資金の依頼しています。野口英世は研究成果は一流でも、放蕩癖があったことはあまり知られていません。

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関東大震災時の復興長長官を務め、東京市長で、大風呂敷と呼ばれた後藤新平の親友でした。当時、台湾総督も務めた後藤から、台湾からモルヒネの原料を融通してもらい、一大製薬会社を作ります。これがきっかけで、既得権益を有する同業他社と官業から妬みを買うことになり、執拗な嫌がらせを受け、製薬事業自体が経営悪化してしまいます。息子の星新一に経営を譲るもののうまくいかず、ホテルニューオータニの大谷家が、星製薬の財産を引き次ぎました。大谷米田郎は、力士出身、廃業後に鉄工会社を経営し大成功した資金を、ホテル事業に振り向け、経営が傾いた星製薬を引き継いだわけです。引き継ぎにあたり、社名を変更することもありえましたが、大谷米太郎は、星新一の「親切第一」の経営方針を信奉しており、星製薬の名前をそのまま引き継ぎ、現在でも営業を継続しています。
 
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こちらが現在の星製薬の看板製品である、クマザサエキスです。滋養強壮に良いらしく、白髪の方が黒髪になってしまうほどだそうです。ただその抽出には大量のクマザサが必要なため、かなり高額(1万円近いらしい)。

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こちらが原材料のクマザサです。大敷地内に薬草園が整備され、さまざまな薬草の生育を見ることができます。

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薬草園で見るべきは、「キナノキ」です。これは星一が世界発で大量生産に成功した薬「キニーネ」の原木です。

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 今回は、星薬科大学広報の高橋様にご案内いただき、大変助かりました。いわきの偉人の足跡を後世に残し、次世代の糧としたいと思っています。