航空科学博物館は、成田国際空港に隣接して設置された日本最初の航空専門の博物館です。もともとは、地元の芝山町から出された空港開港関連の博物館建設要望で作られた施設で、現在は公益財団人航空科学博物館が運営管理しています。

日本初の国産旅客機であるYS-11試作1号機(実機!)の屋外展示や、実際にパイロット養成訓練で使用されたDC-8のフライトシミュレータ、ボーイング747の客室の実物大モックアップ、成田空港の模型などが展示されていました。

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やはり、なんといってもYS-11です!日本のメーカーが開発した初の純国産旅客機、その試作機第1号の実機がこちらにあります。YSの生産累計は1965年-1973年の18年間で182機(うち、海外輸出70機以上)、2006年に日本国内の民間定期路線から引退しています。

戦後、連合国の占領下では航空禁止令が布告され、日本のすべての飛行機が破壊され、航空機メーカーも解体されました。大学の授業から航空力学の科目はなくなり、自国製の航空機を再び飛ばすことは、1957年まで禁止されていました。

1957年に、「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称、「輸研」)が東京大学内に設立。輸研での設計には、零式艦上戦闘機や雷電、烈風を設計した新三菱の堀越二郎(「風立ちぬ」主人公のモデル)、中島飛行機で一式戦闘機「隼」を設計した富士重工業の太田稔、川西航空機で二式大艇や紫電改を設計した新明和工業の菊原静男、川崎航空機で三式戦闘機(飛燕)や五式戦闘機を設計した川崎重工業の土井武夫といった戦前の一線級の技術者が参加、設計に没頭したそうです。1960年からの実機製作は三菱の技術部長、東條輝雄が参加。陸軍大臣や首相を歴任した東條英機の実子です。そんな蒼々たるメンバーが、設計制作にかかわったのがYS-11です。
 
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機種名であるYS-11の「YS」は、輸送機設計研究協会の「輸送機」と「設計」の頭文字「Y」と「S」をとったものだそうです。モックアップ完成披露時のキャッチフレーズが「横浜・杉田で11日に会いましょう」であったので、これはYに横浜、Sに杉田を掛け、11に合わせて公開日を11日にした語呂合わせでもあるそう。

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1960年の設計だけあって、コックピットは狭くかつ貧弱でした。当時はこれがスタンダードだったんですね。

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館内5階にある360°見渡せるロビーからは、成田空港が一望でき、そこには航空管制塔で実際使用されていた器材が移設されていました。まさに航空管制塔の一角にいるように錯覚します。

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成田空港の模型が展示されていました。これだけの国際空港で滑走路が2本しかない(1本は2,500mしかない)というアンバランスさに、あらためて驚きます。ここの特筆はバーチャルリアリティです。タブレットを模型にむけると、実際の時刻表と1秒違わずに、離発着する飛行機が3Dで表示されるだけでなく、誘導路に向かう飛行機がその詳細情報とともに画面に映し出されることです。この技術はすごい。非常に近い未来の日常を見たような気がします。

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4階の展望レストランで機内食セット930円をいただきました。機内食の雰囲気は出ていて美味しかったです。
 
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展望レストランからは、成田空港が一望できます。同じ滑走路を、数分単位で出発便と着陸便が、交互に使っているのが手に取るように分ります。利便性だけでなく安全性を考えたら、滑走路は複数、できればたくさんあるに越したことはありません。

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成田空港には、かれこれ数え切れないくらい来ていますが、その周辺施設を見学したのは初めてでした。土地買収を巡る成田空港闘争は過去の歴史のようですが、成田空港の拡張の遅れがハブ化を阻み、それが現在でも影響を及ぼし、それが羽田空港の国際化や滑走路拡張に発展していっているのは、連綿とした事象のつながりなんですね。