尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)は鹿児島市にある博物館です。薩摩藩第28代当主島津斉彬によって始められた集成館事業が始まりです。現在は島津興業という会社によって運営され、島津家に関する史料や薩摩切子、薩摩焼などを展示されています。島津興業は、第19代当主の島津光久によって造園された仙巌園や、この尚古集成館を所有・運営しており、代表は、島津氏第32代当主である島津修久氏です。現在当主は、鹿児島市内のまちなかに在住とのこと。

1856年 磯に反射炉完成
1865年 島津藩の機械工場として集成館が竣工
1923年 尚古集成館として開館 
1956年 株式会社島津興業により運営 
1959年 敷地が国の史跡に指定(「史跡 旧集成館」)
1962年 建物が重要文化財に指定(「重要文化財 旧集成館機械工場」)
2007 経済産業省の「近代化産業遺産」に認定
2013年 旧集成館・旧集成館機械工場を含む「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」が世界遺産に推薦されることが決定

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薩摩藩では1840年代に、西欧の科学技術を導入して海防体制の強化が図られていました。1851年に藩主となった島津斉彬は、西欧諸国のアジア進出に対応し、軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践しました。それら事業の中心となったのが、仙巌園の隣りの磯に反射炉やガラス工場などを次々に建て、一連の工場群「集成館」を造りました。そして、ここを中心に、造船・造砲・ガラス製造・紡績・写真・電信など多岐にわたる事業を展開しました。幕府・諸藩が軍備増強ばかりを主としていたのに対し、斉彬は西欧諸国と対等な関係を築くため産業の育成・社会基盤の整備にも重点を置いたわけです。当初は、いずれの事業も蘭学書のみが先端技術習得の鍵であったため、斉彬は藩内の蘭学者だけでなく、幕府・諸藩の蘭学者を招聘し、研究に当たらせたそうです。さらに、不足している西洋技術は日本在来の技術を改良する形で補い、独自の設備を構築しました。
 
<写真は、当時、伊豆韮崎と佐賀鍋島等にしかなかった反射炉の跡地> 
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斉彬の死後、藩主に就任した忠義と忠義の実父久光は、斉彬の遺志を継いで富国強兵を推し進めました。使節・留学生をイギリスに派遣するなどして、最新の技術・機械を入手、技術者を薩摩藩に招きました。1863年に薩英戦争で大きなダメージを受けますが、英側は、戦後の講和交渉を通じて、かえって薩摩を高く評価するようになり、関係を深めていきます。2年後には公使ハリー・パークスが薩摩を訪問しており、通訳官アーネスト・サトウは多くの薩摩藩士と個人的な関係を築いたそうです。薩摩藩側も、欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていきました。そうしてイギリスの技術習得をして、1865年に竣工した集成館機械工場や、1867年に竣工した日本の初近代的な紡績工場・鹿児島紡績所など、薩摩藩は日本最先端の工業施設・技術力を所持するようになりました。1867年に開催されたパリ万国博覧会では、薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で出品するほどでした。結果的に薩摩藩はこれらの技術力・資金力を背景に、幕末の倒幕運動を牽引することとなります。そして明治時代になると、集成館事業で活躍した人物が日本国内の工場に技師として招かれて指導した。集成館は近代産業の礎を築き、全国に富国強兵を広げた原点といえる場所といえるでしょう。

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明治に活躍した薩摩の人物達は、ここ尚古集成館を基点につながります。西郷隆盛は島津斉彬に見いだされ、重用されました。大久保利通も斉彬の薫陶を受けた薩摩藩士です。東郷平八郎(日露戦争でバルチック艦隊を破る)は、西郷隆盛の推薦でイギリス留学することができ、海軍に入ることになります。黒田清隆、大山巌(日露戦争の総司令官)らは、薩英戦争に直接参加しています。五代友厚(政商)は、イギリスから尚古集成館の紡績機械の購入並びに技師の招へいを行いました。これらの歴史上の人物は、歴史の机のお勉強でなく、生身の人間が当時、絡み合って、相互に影響し合って、明治の「坂の上の雲」が実現したのだということが実感できました。

このような人物達を生んだ薩摩という土地、新しいモノ、技術を積極的に自分のモノとして体得していく姿勢は、現代にも全く以て通用することでしょう。その姿勢を大事にし、将来世代に知ってもらうため尚古集成館のような施設を大事に残し、先人達の歩みを、次世代に伝えようとする薩摩の風土に感服しました。