鳥居忠政が、物見が岡に磐城平城を築いて400年以上になりますが、現在その城跡には物見ヶ岡稲荷神社が建っています。壕の形が草書体の「龍」の形に似ていた事から、別名「龍ヶ城」(りゅうがじょう)とも呼ばれました。天守閣の代わりに本丸の三層櫓を持ったその姿は、磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われ名城を誇っていたそうです。城は戊辰の役で落城し、その際に火が放たれたため、当時の建物は焼失してしまっています。その後新政府によって民地として払い下げられ、この稲荷神社も、民間の手で建築されたようです。
稲荷神社の建物は簡素な造りでした。
平市街が一望できる高台にあるため、市の防災無線の設置場所としては最適です。実際、今でも運用がなされているそうです。
ここにあった「本丸御殿」は、10畳程度の部屋が100室くらいあって、かなり広い面積の平屋の建物だったそうです。昭和の時代に、平城を再建・築城しようという機運が広がり、市民から募金を集めたことがあったそうです(史実では天守閣はなく三層櫓と、中央に本丸・平屋の執務棟があった)。物見が岡の中央部分には、そのコンクリート布基礎の遺構が広大に広がっていました。これを撤去するのには、相当なコストがかかりそうですが、逆に言えば、この広大な平たい敷地部分の潜在的な利用価値は大きいと思います。
現在は民有地のため、勝手なことはいえませんが、もし公有化できれば、いろいろなアイデアが考えられます。
・総合博物館(歴史・民族等)の敷地
<磐城平藩 最後の藩主 安藤信勇はコチラ>稲荷神社の建物は簡素な造りでした。
平市街が一望できる高台にあるため、市の防災無線の設置場所としては最適です。実際、今でも運用がなされているそうです。
ここにあった「本丸御殿」は、10畳程度の部屋が100室くらいあって、かなり広い面積の平屋の建物だったそうです。昭和の時代に、平城を再建・築城しようという機運が広がり、市民から募金を集めたことがあったそうです(史実では天守閣はなく三層櫓と、中央に本丸・平屋の執務棟があった)。物見が岡の中央部分には、そのコンクリート布基礎の遺構が広大に広がっていました。これを撤去するのには、相当なコストがかかりそうですが、逆に言えば、この広大な平たい敷地部分の潜在的な利用価値は大きいと思います。
現在は民有地のため、勝手なことはいえませんが、もし公有化できれば、いろいろなアイデアが考えられます。
・総合博物館(歴史・民族等)の敷地
http://www.mikito.biz/archives/36153045.html