安藤信正(磐城平藩 第5代藩主、安藤家第10代目)は、江戸幕府での老中、公武合体の立役者、外交政策の手柄、そして最終的に坂下門外の変で失脚することで、歴史上の人物となりましたが、磐城平藩の最後の藩主の安藤信勇(安藤家第12代目)の活動が、その後の磐城平城の方向性を決定づけました。この経緯をまとめたものがないので、幕末~明治にかけての磐城平藩の動きをまとめてみました(未検証)。

文久3年(1863年) 磐城平藩第6代藩主 安藤信民(安藤家第11代目)が5才で夭折したため、隠居している安藤信正(第5代藩主)により、安藤信勇が第7代藩主として迎えられ、家督を継ぐ。ただ若年(14才)のため、藩政の実権は信正が掌握する。
慶応4年(1868年) 戊辰戦争。当時、藩主信勇は平藩分領の美濃加納にある別邸に滞在中だった。藩主不在の磐城平藩の藩論は二つに割れ、恭順派は儒学者・軍事掛 真木光、抗戦派は執政 上坂助太夫。結局、在国の隠居 信正が佐幕派として奥羽越列藩同盟に加わることを決定し、新政府と敵対することになった。反対に、藩主信勇は上京し、新政府に恭順した。なお、磐城平城は落城に際し火が放たれたため、当時の建物はほとんど残っていない。敗れた信正は仙台に落ち延びたが、謹慎。
明治元年(1868年) 信正が新政府と敵対したことで、信勇も謹慎を命じられる。そして、陸中磐井郡3万4千石への移封を命じられる。それに対し、信勇は新政府に嘆願書を提出し、旧領復帰を働きかける根廻しを開始。
明治2年(1869年) 信勇は、政府に7万両を献金する代わりに、磐城平藩主として旧領復帰する。そして版籍奉還により、横滑りして磐城平藩知事となる。この時期に、旧平藩庁(現存)を急ごしらえで建設し、そこに住んだ模様。
明治4年(1871年) 廃藩置県で免官。東京に移住し、華族となる。
明治5年(1872年) 隠居し、養子の信守(信民の弟)に家督を譲る。
明治17年(1884年) 子爵となる。その後、学習院で書道教授を務める。皇太子嘉仁親王(大正帝)の教官。忠君として元首の後継者により善くと思う、このときの厳しい教え方が、周囲から「安藤に不尊の念あり」との疑いを受け、礼遇停止(宮内省から華族へ渡る補助料)の処分を受けてしまう。大隈重信の「安藤家を潰してはならぬ」の一言で、どうにか家名だけは残る。晩年は磐城平に戻る。
明治41年(1908年) 死去

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その後ですが、
安藤信守(養子、信民の弟、13代目):子爵を継承。
安藤信篤(信勇の実子、14代目):子爵を継承。磐城中学(現磐城高校)で学んだ。かなり優秀で、将来が期待され八高(名古屋高校)に入学したが、在学中に結核で死亡。この学費調達に相当オカネがかかったらしく、前述の安藤家所有の磐城平城物見が丘の安藤家居宅とその敷地が、飯野八幡宮に売却された。その後、土地建物は民間に渡り、これ以来、安藤家はいわきの地を離れる。旧平藩庁は数度の改築等を経て、現在に至っている。

<現在の、物見が岡にある本丸・平藩庁跡に建つ建物外観 2014年2月撮影>
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安藤信昭(養子、有馬頼万次男の頼篤(よりあつ)、15代目):閑院宮戴仁(ことひと)親王の第一女王恭子(ゆきこ)を室に迎える。礼遇停止が解除される。子爵を継承。貴族院議員として活動。
安藤信和(信昭の実子、霞が関ビル隣の霞会館(旧華族の集会所)の正式登録者)
安藤綾信(信昭の養子、16代目。安藤家で伝承された茶道の御家流(おいえりゅう)の家元)、横浜在住。