いわきを流れる灌漑用水の小川江筋を作ったのが、澤村勘兵衛勝為であり、その伝承を小説化した本です。昭和57年にいわき民報に連載された「血流記」(沢村勘兵衛伝)が単行本化されたものです。なお血流記という名前の由来は、夕日を浴びた小川江筋の色が深紅色が、勘兵衛にはまるで血の色に見えたからだそうです。当初は難工事でしたが、数百人の人夫が昼夜を問わず投入され、3年3か月で完成したという伝説もあります(他の文献には30年の工期との記述あり)。当時は重機もなく、30kmの工区を3年あまりの期間で完成させたことは、伝説の域を出ません。ただ工事が進捗するにつれ下流域の農民が競って人夫出しに協力した(早く完成させ、おらが村に疏水を引き込みたい)ため、当初の予想以上のペースで工事が進んだこともあるかと思います。

小川江筋(えすじ、と読みます。一般にいう用水路のことで、いわき市ではそれを「江筋」と呼びます。)は、疏水のひとつで、およそ350年前、平藩内藤忠興の時代に、郡奉行であった澤村勘兵衛勝為が工事を起こし、完成したものです。小川町関場から夏井川の水を取り入れ、水路の長さはおよそ30km、山裾を通し、平の平窪、鎌田、中塩、四倉を通って仁井田川につながります。これにより、それまでは灌漑用水がなかったため荒れ放題だった平地が約900-1,200haの水田となりました。また現在は、平浄水場の原水としても使われています。
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小川町三島地内にある、小川町関場の取水堰は、夏井川のカーブを利用した多段式、木工沈床の斜め堰で、江戸時代に建造され、現存しているものは全国に3つしかなく、東日本ではここだけだそうです。約300年以上にわたり大規模な改築もせずに、その機能を十分に果たしているのは、驚きです。
 
<平浄水場については、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/27926617.html 
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いわき市の主な灌漑用水は、「小川江筋」と「愛谷江筋」の2つがあります。小川江筋が夏井川右側(上流から見ると左岸)を通るのに対し、愛谷江筋は夏井川左側(上流から見ると右岸)を通って、鉄北地区から、街なかを経由し、北白土・夏井・平高久・沼ノ内に続いています。

小川江筋の責任者は澤村勘兵衛でしたが、この工事に三森治右衛門という男も携わっていたそうです。血流記によれば、この男は治水現場の人足だった百姓でしたが、横山台の石垣崩落事故でけがをしたきっかけで、沢村勘兵衛にその才を見いだされ、最大の工事難所であった小川の丸山隧道(暗渠トンネル)化や、鎌田の水喰土(せっかく引っ張ってきた水が地面に吸いこまれてしまう土地)における筵と粘土を敷き詰めた新工法を編み出すなどして、一目置かれる存在でした。小川江筋の完成後に、沢村勘兵衛は亡くなりますが、20年後に、さらなる新田開発のため、この三森治右衛門が愛谷江筋の開削にあたることになります。400年近く前に作られた疏水が、いまでも現代人の上水、農業用水として使われていることは驚きの一言です。先人の作った土地の上に、われわれは生かされているということを強く感じます。

澤村勘兵衛は、別件の小さなミスから藩主内藤忠興の逆鱗に触れたため切腹を命ぜられ、大館西岳寺で40歳の生涯に幕を閉じています。一方、農業従事者からは最大の恩人とたたえられており、平下神谷岸前にある澤村神社が作られ、祭られています。

ちなみに、夏井芳徳氏の「ぢゃんがらの夏」によれば、いわきの名物で、地区の青年会などが旧盆に、新盆宅を回り仏を供養して家族を慰める夏の風物詩『じゃんがら念仏踊り』は、上平窪にあった利安寺で、小川江筋の開削者の沢村勘兵衛勝為の一周忌で、農民が『じゃんがら念仏踊り』を踊ったのが始まりだそうです。地元の歴史を紐解くと、いろいろな事象がつながるので、興味深いです。