いわき市立美術館で、今日から安藤信正展が始まりました。いわき市では初めての、旧藩主を題材とした企画展です。安藤信正は、日本史の教科書に掲載されている数少ない、いわきゆかりの人物です。いままでどうして一度も企画展を開いていなかったのか不思議なくらいです。
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安藤信正は1847年に磐城平藩主となり、翌年に江戸幕府の奏者番、寺社奉行、若年寄の要職に就きます。そしてその才能才覚を高く評価され、外国御用係の老中として外交交渉にあたりました。譜代とはいえ5万石の小藩の領主が老中まで、異例のスピード昇進ができたのは、ひとえにその人当たりの良さと実務能力の高さにありました。当時は欧州列強が日本を植民地化しようと画策していたフシもあり、それを回避したのは安藤信正です。
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井伊直弼の後任の筆頭老中となり、攘夷の風が吹き荒れる日本丸の運営に奔走しました。日本が今日あるのは、四面楚歌の中で開国を推し進め、未然に西欧諸国の野望を防いだ安藤信正らの働きがあったことを評価しなければなりません。残念ながら登城途中に坂下門外で襲撃され、それが遠因の中傷により失脚させられてしまいました。

主な功績:
・皇女和宮と将軍家茂の婚姻、公武合体を推進し、尊皇派を懐柔
・プロイセン王国(現ドイツ連邦)との日晋修好通商条約の締結
・米国や英国が領有を主張していた小笠原諸島を外交交渉で奪還、開拓団を派遣
・ロシアと交渉し、樺太国境の決定
・文久遣欧使節を欧州に派遣し、西洋文明の吸収
・桜田門外の変による彦根藩(井伊直弼の藩)と水戸藩(事件を起こしたのは水戸藩浪士)の戦争を回避
・アメリカ公使タウンゼント・ハリスと協働し、兵庫・新潟の開市・開港延期を獲得
・ハリスの秘書兼通訳を務めていたヒュースケン殺害事件が国際問題となるが穏便に解決。日本の植民地化を回避。

江戸城登城の途中で起きた坂下門外の変で、信正は駕籠から飛び出し自ら抜刀して戦いましたが、顔に1カ所、背中に2カ所の重傷を負いました。信正は重傷をおして外交交渉等の公務を継続しました。通訳を使者にイギリス公使オールコックとの折衝を続け、自ら包帯姿で引見、オールコックはこれに感動し、開市開港の期日延期を認めたそうです。信正は、事務局の用意した答弁に頼らず臨機応変に自らが対応し処理するという、殿様の枠を超えた手腕が群を抜いており、外国公使団からは幕僚最高の信頼を得ていたといわれています。しかし、国内の公武合体の反対派や通商条約の内容(特に低関税)に不満を持つ者、そして攘夷論者によって中傷され失脚していきます。時代に「もし」は禁句ですが、ゆっくりとした開国を目指した信正が生きていれば、急進的な攘夷、倒幕は起きなかったかもしれません。

今年のNHK大河ドラマは、幕末の会津を舞台にした「八重の桜」ですが、小藩からのスピード出世や、老中時代の列強との外交交渉、公武合体の画策、桜田門外の変の収束、坂下門外の変の働きバチぶり、そしてその後の奥羽越列藩同盟、戊辰戦争等に直接関与した人物として、ドラマのコンテンツはひけをとらないと思います。ここいわきのゆかりの人物から、大河ドラマの主人公を出したいものです。


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本日は展示会初日ということもあり、安藤家16代当主の安藤綾信様が、いわき市立美術館にご臨席賜りました。高齢の方ですが、御家流という安藤家独自の茶道の宗家として、凜とした風格を持った方です。ご挨拶させて頂きましたが、ドキドキしてしまいました。

美術館1Fには、御家流のお弟子様方によるお手前が披露されていました(呈茶席というらしいです)。武家の茶道ということで、作法が表千家、裏千家等とは大分違うそうです。練り切り(きんとん)は、安藤家の家紋付きで特注で、素晴らしいをお手前を拝見し、安藤家所蔵の立派な茶器でお抹茶を美味しくいただいてきました。
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安藤信正公 略年譜
1819 江戸蛎殻町の藩邸に生まれる
1829 信睦と称する
1835 伊勢守
1843 長門守
1845 平藩主となる。江戸城雁の間詰
1848 奏者番
1851 寺社奉行
1856 対馬守
1858 若年寄
1860 老中、外国御用掛。信行と改める。日晋修好通商条約締結
1861 イギリス公使オールコックらとロシア軍艦の対馬退去を協議、小笠原諸島開拓のため水野忠徳を派遣
1862 坂下門外で負傷。信正と改める。老中失職、永年蟄居
1868 鶴翁と改める。磐城平城へ。奥羽越列藩同盟。戊辰の役、平城落城、仙台城下で降伏
1871 没