「三猿文庫」をご存じでしょうか。三猿文庫とは、いわきの郷土資料だけでなく、いわき地方の新聞類、全国の近代雑誌創刊号、文学集等を収集したもので、故諸橋元三郎氏が私財で収集し、いわきにおける図書館として昭和中期に開館していたものです(利用者は少なかったようですが)。3万点もの個人蔵書は、日本有数だそうです。元三郞氏は文庫名の意味について、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿の教えを逆説的にとらえ、大いに見聞を広め、知識を涵養すべきとの哲理であると言っていたそうです。蔵書は蔵※2 に保存されていたため、火災による焼失から免れることができたそうです。現在は孫にあたる諸橋鑑一郎様の寄贈により、草野心平記念館によって蔵書整理、目録作成がなされ、いわき総合図書館に保管されています。

当時諸橋元三郞氏は、釜屋※1を運営して大きな財をなした一方、演劇や音楽会開催時には多額を寄付をする等、いわきの文化パトロンとしての役割を果たされていたとのこと。郷土史家の出版活動を支援し「磐城文化史」「磐城史料図版修正附磐城史概論」「福島県政治史」「綱要石城郡町村史」など数多くの著作の出版に援助と支援を惜しみませんでした。かように篤志・見識・資力を兼ね備えた人物でした。ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおけるメディチ家のように、裕福なパトロンがいる時代には、大きな文化が花開くということを歴史が証明してくれています。一方、こういった人物がいなくなると、文化としては寂しくなります。

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上は昭和20-30年前後にいわきにおいて出版されていた、雑誌・文学集のリストです。これらをせっせと買い集めた元三郞氏は、いわき文化のまさしくパトロンであったことでしょう。

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(三猿文庫にて、諸橋元三郞氏と郷土史家の諸根樟一氏)

※1:釜屋
 江戸時代、元禄13年(1700)創業、平藩御用商人であった初代諸橋久太郎によって創業。その後、鍋・釜などのカナモノ類の販売を行い、次々と事業を拡大。「釜屋諸橋久太郎商店」「諸橋合名会社」「諸橋金物株式会社」から、平成3年に建設資材卸会社「諸橋」と名称を変えて営業。平成14年2月(2002)に自己破産。
屋号が諸橋久太郎であったため、初代から5代目まで、5人の諸橋久太郎氏がいました。最も有名なのは、商店を切り盛りした後に、平市長(3期12年)、貴族院議員を務めた5代目の諸橋久太郎氏(諸橋守次(もりじ))。諸橋元三郎氏の実兄です。

※2:蔵・建物
釜屋はいわき市平五丁目で木造の店舗で営業していましたが、明治39年(1906)に平の大火が発生し、店舗や居宅を焼失。これを教訓に、明治41年に耐震耐火を基本に土蔵造の店舗と袖蔵が建築されました。重厚な蔵造りの店舗は総ケヤキ造りで、店舗脇にある蔵の材料は、イギリス製赤レンガが使用されたそうです。その後、大正初期に両建造物が洋風の石張り建造物でつながれました。
一方、店蔵裏の木造の家屋が居住用施設として建てられ、昭和2(1927)年には、更にその奥に数奇屋造りの居宅が建てられました。その庭の一画に地元の自然石を収集し、元六園と呼んでいました。その後も増改築を繰り返していったようです。
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KURA BAR1平成元(1989)年の火災により店蔵裏の木造家屋が焼失。早朝の火災発生は、死者3 名、負傷者2 名を出しました。その後、平成14(2002)年の会社倒産により、土地・建物は破産管財人の管理となります。

そしてこの倒産の2年後、いわき市の有力者が、歴史的建造物保存の観点から、同土地・建物を購入。現在は、本体を壊さずに内部を改装した上で、店蔵は「SARON de 蔵」という複合施設に生まれ変わり、また袖蔵はバー「KURA BAR」、両蔵をつなぐ石張り建築部分には焙煎喫茶「香楽(からく)」が営業しています。


なお、奥の居宅などの建物はマンション建設のために取り壊されてしまったそうです。
 
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若き日の諸橋元三郞氏。ちょっとイイ男だったのですね。

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