吉田みきと ほぼ毎日ブログ

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」 吉田松陰・高杉晋作語録   「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない。」 西郷隆盛・山岡鉄舟語録

2015年08月

ときわ塾 2015夏期講習

ときわ塾は、いわき泌尿器科や常磐病院のときわ会グループが運営する放課後学童クラブです。学校期間中は、放課後から夜19:00前後まで、ときわ会職員のお子さんを預かっています。単に預かるだけでなく、遊びや学習に力を入れていることが特徴です。

そのときわ塾が、夏休みに夏期講習を7/21から8/24の23日間(土日はお休み)、開校しました。一コマ50分、休憩10分のスケジュールで、朝7:15から夕方19:00までびっちりやります。基本科目は、勉強・速読・速算・読書・英会話です。それに加えて、介護体験、職場見学、工場見学、座禅会、実験教室、フットサル体験、ビーチテニス等の特別科目が加わります。

算数の時間に飛び入りで参加させてもらいました。「遠回りをせずに進む進み方は何通りあるか?というパズルを解きます。最初は試行錯誤してやるのですが、そこに法則性を見つけて、いかに早く、ミスなく正解にたどり着けるかを競います。私も参加したのですが、みんな早い!聞くとこの問題は、算数オリンピックに使われているものの初級バージョンだそうです。頭を柔らかくしないと、正解にたどり着けません。子ども達にとっても、パズルを解くのは楽しいし、その過程で頭を使うことで、思考のレベルが知らず知らずに上がっていくのだと思います。子ども達にやらせておいて、さりげなく教えるというのが、うまい。

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参加しているのはときわ会グループの職員のお子さん達で、ご小学校高学年のクラス、低学年のクラス、それぞれ常時15-20人くらいが勉強していました。

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早く解くことを(正解でなければなりませんが)競争させて、一番の子から高いポイントを与え、ポイントをスタンプ帳に貯めていきます。そしてポイントが一定程度貯まったら、文房具等の景品と交換できるという特典を用意することで、子ども達の関心を引き付けていました。実際、子ども達は、「これだけポイントが貯まったんだよ!」と自慢して、スタンプ帳を見せてくれました。

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工場見学の先は東洋システム、座禅体験は1泊2日で龍門寺、極めつけはフットサルのコーチは、日本代表!の滝田学選手です。ときどき東京大学の学生も授業のお手伝いに参加して下さるそうです。全てがホンモノ、これを実現できるときわ会の人的ネットワークは改めてスゴイと思いました。

子どもをときわ塾に通わせたくて、ときわ会グループに勤務を続ける?という職員の方もいらっしゃると聞いていましたが、なるほど、さもありなんと思った見学でした。
 

磐城桜ヶ丘高校で総合防災訓練

平地区のいわき市総合防災訓練が、桜ヶ丘高校で行われました。これは、市民の防災に関する意識の高揚と知識の向上を目的として実施するもので、平地区のほか、この週末に市内11カ所で行われています。

訓練想定は、超大型の台風により「大雨洪水警報」「土砂災害警戒情報」が発表され、避難勧告が発令されたというもの。お城山地区(24区)内の方を対象に、緊急連絡網で情報伝達を行い、最寄りの避難所(磐城桜が丘高校)へ避難しました。

今回は 避難するだけでなく、集まった住民の方々で、災害図上訓練(DIG)をします。具体的にはこのようなハザードマップを自分たちが相互に話し合って作成していくことで、防災意識を高め、住民相互の信頼関係をさらに構築していくことを狙っています。実際、近所には住んでいても話をしたことがないなんて、ザラにあります。「共助」なんてよく耳にしますが、話をしたことがない関係で、相互に助け合う共助は望めない。
 
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自分の家を含む地区の大地図を広げ、災害が起きやすい箇所、避難するときに問題となりそうな箇所に印を付けていきます。また日頃から感じていることを付箋に書いて、どんどん貼っていきます。

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各チームごとに、作業の結果や出た意見を発表しました。

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今回の訓練では、防災メールによる全市一斉通知を取りました。マナーモード等にかかわらず、携帯電話のサイレン音が鳴る、アレです。8:30 大雨洪水警報発表、8:45 土砂災害警戒情報発表、9:00 避難勧告発令になったという想定です。
 
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訓練終了後に、会場でカレーの炊き出しが行われ、無料で配給されていました。ひとつの大鍋でカレー、もうひとつでご飯が炊かれていました。100人を超える参加者がいて、求める方が殺到し、ここで大渋滞が発生。まさに災害当日、大雨の降りしきる中で、お腹を空かせ、やっと炊き出しが開始されたときは、これ以上の方が血眼になって配給に殺到し、パニックになるんだろうなと思いました。

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サイクルトレイン 神俣・小野新町からいわきまで50kmをママチャリで走破

サイクルトレイン(バイシクルトレイン)に参加しました。JR東日本さんが、いわき駅から40km先の磐越東線の神俣駅まで自転車を運んでくれるというものです。自転車を(そのまま折りたたまずに)列車に持ちこんで、後は、木々の緑の中を線路沿いにのんびり自転車でいわきまで帰ってきました。いわき駅では、駅長さんや駅員に見送っていただきました!

<サイクルトレインのチラシは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/45156710.html
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普通の車両に自転車を搭載するため、車両の揺れから自転車を固定するための器具。自転車2台を固定することができます。

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固定器具に自転車の前輪をかけ、さらにベルクロテープを巻き付けて固定。そこまでしてガッチリと固定しなくても・・・とは思いますが、安全確保のためだそうです。

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いわき駅長さんをはじめとして、駅員さんがBicycle Train専用の旗を持って見送ってくれました。

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天候は小雨。自転車にとっては悪条件ですが、それでもやります!ルートとしては神俣駅を出発し、まず小野森町を目指します。そこから、磐越東線に寄り添うように県道41号線(小野四倉線)でいわき市小川まで来ます。そこからは赤井を通って、いわき駅まで帰ってきました。

途中の小野町では、100年続いているという「仙台屋食堂」で、定番のラーメンを補給。懐かしくなるような醤油味の中華麺でした。

<仙台屋食堂のラーメンは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/45245954.html
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いわきの山間部の魅力を、自動車では感じられない自然の風・香り・音を体感したいというのが目的です。自転車ならではの体験をしたいと思っていました。ゆっくり走ることでいろいろなものが見えてきます。こちらは石組?で作られた水道橋。水道の送水のために作られたもののようです。こんな山間部にこんなモノが?という驚きと、相当古いものとおもいますが、こんな山間部によく作ったな!と思います。

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美しい滝を発見しました。特に名もないようですが、落差もあり、激流です。夏場にここで水浴びしたら楽しそうです。

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記念物モノの吊り橋を発見。試しに渡ってみたら歩みに従って、縦にウェーブのように揺れる揺れる。木製の板の隙間からは、川面が見え、ここで落ちたら誰にも気付かれずに流されるな・・・とおもいました。その先をみると、タイヤの跡が。この木製の橋を自動車が通るのでしょうか。いや恐ろしい。

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記念物モノの老朽化している木橋を発見。増水していることもあり、ちょっと危険。こちらは通行禁止となっていましたので、渡るのは止めておきましたが、対岸には電力会社の建物があります。ということは、関係者は利用しているのでしょうか。

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いろいろな発見がある小さな旅でした。そういえば小野新町を出てから、小川のローソンまで、まったくコンビニがなかったし、飲み物の自販機も数えるほどしかありませんでした。また自動車の通行も数えるほどしかありませんでした。

線路と寄り添うように走るので、何度も踏切を渡りますが、トンネルを間近で見ることができるポイントがいくつか有りました。自転車の旅は簡単に停車して、眺めたり、写真を撮ったりすることができるのが強みですね。これも自転車を列車で運んで頂いたから体験できたことです。これを列車を使わずに自転車のみでやろうとすると、標高が低いところ(いわき駅)から高いところ(神俣駅)まで、ほとんどの道のりを登らなければならず、一般人にはとても不可能です。小野新町を12:30に出て、いわきに到着したのは16:00を回っていました。休み休みとはいえ、3時間以上かかるのは、「小さな旅」のレベルを超えていたかもしれません。高校生~大人向けのいわき再発見プログラムではないかと思います。ぜひ体験してほしい。

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雨の中でしたが、楽しく走れました。JR 東日本の皆様、大変お世話になりました。ありがとうございました!
 
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いわきのチャーメン お食事処一膳

いわき市役所近くのお食事処一膳は、お昼時には、たくさんの定食メニューを求めて賑わっています。そこで特出しされているのが、「いわきのチャーメン」。ここ以外で見かけたことがないのですが、お店の前を通る度に、気になっていて、ついに食べる機会がありました。

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いわきのチャーメン、550円。これは、戦後の大衆食「焼きそば」を、いわきならではの食材にこだわって復活させたものだそうです。焼き飯がチャーハンなら、焼き麺はチャーメンということらしい。見た目は、ソース焼きそば。変わったところといえば、大量の鰹節がトッピングされていることと、和辛子・マヨネーズが付いていること(これは、いわきの冷やし中華の流れか?)。食べていてわからなかったけれど、いわきのあげかまが具に使用されているらしい。ネギが多いソース焼きそばでした。
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充実した定食メニュー、かつリーズナブル。もっとの近隣にある市役所食堂の値段が比較的安いので、それとの競合関係にある以上、あまり上げられないのかもしれない。

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原産地表示が目を引きました。お米は、いわき産コシヒカリで、野菜類は「いわき中心」。納豆・干物類は「国産、一部ノルウェー産」。全く正しい表記なんだけれど、なんだか頬が緩んでしまった。

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中村豊氏の銅像 常磐興産の中興の祖

中村豊氏は、常磐興産の中興の祖というべき存在であり、スパリゾートハワイアンズの駐車場の一角に銅像が設置されています。ハワイアンズの前身である、昭和41年に創設された常磐ハワイアンセンターは、当時建設に対して相当な反対運動がありました(映画フラガールのとおり)。そこを強力なリーダーシップを持って押し切り、推し進めたのが、中村豊氏なのです。
 
当時は、炭鉱の町だった常磐地区ですが、時代の流れとともに需要が減り、炭鉱を閉山すれば雇用がなくなるというにっちもさっちもいかない状況でした。常磐興産の社員であった中村豊氏は、中村氏は当時、斜陽産業であった炭鉱産業の従業員救済のため、温泉を再利用する構想を打ちたてます。そこで炭鉱労働者やその家族の雇用創出、さらに同社の新たな収入源確保のため、炭鉱以外の新規事業を立ち上げることになり、『日本人が行ってみたい外国ナンバー1』だったハワイに着目。炭鉱で厄介物扱いされていた地下から湧き出る豊富な常磐湯本の温泉水を利用して室内を暖め、「夢の島ハワイ」をイメージしたリゾート施設「常磐ハワイアンセンター」の建設を計画しました。まだ、東京ドームなどのない時代に柱を1本も使わない「ダイヤモンドトラスト工法」によるドームを起案、そしてフラダンス、タヒチアンダンス、ポリネシアンダンスのダンサーは、自前で設立した常磐音楽舞踊学院から人材を供給するなど、アイディアと推進力を持ち合わせた卓越した人物でした。

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中村氏が常々言っていた言葉が3つあるそうです。「他人の真似をするな。自分達の力でやれ。地域と共に歩め」。そう簡単に模倣することはできませんが、まさに常磐ハワイアンセンターの思いを言葉にしたものではないでしょうか。

<常磐ハワイアンセンターは元炭鉱住宅跡地は、こちら>
http://www.mikito.biz/archives/40413079.html
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ハワイアンセンター開設当初の計画にはなかった、近代的な最新鋭ホテル、モノリスタワー。直近の社長は、常磐興産生え抜きではなく、外部のみずほ銀行出身の井上直美氏です。新しい視点で経営改革を推進中と伺っています。中村豊氏はどんな思いで、現在の常磐興産の経営を見守っているでしょうか。

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ふるさといわき元気セミナー・いわき在京・地元各界交流の夕べ 創造的破壊

ふるさといわき元気セミナーが新橋第一ホテルでありました。講師は、一般財団法人 地域活性化センター 理事長の椎川忍(しいかわしのぶ)氏です。「地方創世の課題と私の考える地域力想像のポイント」です。氏の著書に「知られざる日本の地域力」があり、全国各地の地域活性化の事例を調査・研究されているだけに、氏の主張には裏付けが感じられました。

現在、国は地方創生を掲げ、「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を進めようとしていますが、日本全国すべての地域が成功することは想定しにくい。何割かの地方自治体は地方への移住を成功させるかもしれないが、そうでない自治体も少なからず発生する。すなわち、国内の地域間格差は拡大するであろう。これは確率論なので、地方においては、無居住地区の発生や、集落地区の消滅も必ず出てくる。これに対して国は突き放すことしかできない。

政府ができることは、地方への移住・交流の推進だけでなく、安い海外製品・食料を輸入する方向(国産外消)から、国産国消、すなわち国内で生産したものを国内で消費していくという、Buy Japaneseをしていくことが大事。国民の意識改革と消費行動の変化を促すようにしていくべきである。

それを受けて、都道府県は国の政策にどれだけ役立てるかの存在価値が問われる。おそらく市町村に寄り添って施策を考える都道府県と、国と同様に突き放す都道府県に二極化していくであろう。

市町村単位の地方自治体が、地方創生の主な担い手になる。市町村単位では単位が大きいので、地区単位で人口推計すべき。それにより無居住地域、集落消滅が現実的に明らかになり、生き残りをかけてそれぞれの地区が立ち上がれるかがポイント。
市長村がやるべきことのひとつに、将来の産業従事者が活動しやすくするため、それを担う若手・移住者・子育て世代・女性・子ども達を、政策の意思決定に組み込む、例えば有識者会議のメンバーとすること等が挙げられる。移住者を継続的に獲得するために、サステナブルな構造が必要。具体的には、市内から通学できる高校・大学を維持し、将来の産業従事者を確保する。そして域内で起業しやすい環境・雰囲気を作りだす。子育て向けの賃貸住宅を整備し、市外から移住しやすい、また子育てしやすい、あたたかく迎え入れる環境・雰囲気作りが必要。

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むりやり「コンパクトシティ」を実現するのではなく、あるものはそのままに、使っていく。逆に公民館等のコミュニティ維持に必要な施設こそ、分散して設置すべき、との論が印象的でした。

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セミナー終了後は、いわき市在京・地元各界交流の夕べが開かれました。もう30年も継続している催しで、清水市長もフル参加されました。いわき市出身で、東京で活躍されている方々をお呼びする毎年恒例のイベントだそうですが、ややマンネリ化している感もあります。開催の趣旨をそれぞれが共有することが大事なのではないか。

<昨年のいわき市在京・地元各界交流の夕べは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/36023150.html
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この会場で知り合った方、もしくは旧知の方のネットワークがさらに深まり、新しいことを生み出すことが、この催しの趣旨なのだろうと思います。

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いわきから、市公認ご当地アイドルがアイくるガールズが出演。フラガールズとともに、市のいろいろな催しの定番になりつつありますね。メンバーは卒業によって少しずつ変わっていますが、コンセプトは変わらない。

<アイくるガールズは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/35481534.html
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武蔵小山商店街パルム 都内一の800mアーケード

武蔵小山商店街「パルム」は、都内では最長の800mのアーケードで有名です。東急目黒線の武蔵小山駅から中原街道までですが、近隣の戸越銀座商店街と相まって、一大ショッピング街です。また商店街独自のポイントカードの導入や、独自駐車場まで持っています。個々の商店主がどのようにして公共駐車場まで持つようになったのか、どうやって運営していっているのか、非常に興味があります。

 
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パルムのパルは「友達」、ムは武蔵小山の頭文字をとった造語だそうです。そして独自のキャラクターもいて、男の子がパル、女の子がパムといいます。 パム&パルはパルムのシンボルとして店頭チラシやポスターで活躍しているほか、イベント時にはぬいぐるみでお客様の前に登場するそうです。

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連続する低層店舗でのお買い物には、自転車の愛称が良い。パルムでも自転車利用者が多い。

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脇道には、その道路のど真ん中に整然と自転車が駐輪されていました。枠が引かれているわけでもなし、看板があるわけでもなし、きちんと一定方向に並べられている・・・道路のど真ん中に。誰も撤去しようとか、駐車違反だという声は出ないのだろうか?不思議だ。

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ポケモンセンター@池袋サンシャインシティ

池袋サンシャインシティのポケモンセンターに行きました。ポケモンセンターはゲームソフト・カードゲーム等が置いてあるポケモンオフィシャルショップです。全国に、札幌・仙台・東京・千葉・横浜・名古屋・大阪・広島・福岡の全国9店舗あり、その旗艦店です。

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夏休み期間中ということもあって小中学生で賑わっていました。スランプラリーも同時開催しているので、そのスタンプだけを目的に来店される方も多いのでしょう。

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店内にはかなりの外国人(男女とも)の姿が見られました。クールジャパンの代表作のひとつなんでしょうか。

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店内には、ポケモングッズが山積み。個人的には、やや食傷気味の感もあります。

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ちょうど池袋サンシャインとタイアップ企画の、参加型イベントをやっていました。その名も「謎解き×ポケモン サンシャインシティを救え」です。広いサンシャインシティの中に、チェックポイントが点在し、それを見つけ出し、そこに書かれた謎を解くことによって、最終的な謎解きに至るという、宝探しゲームです。

リアル宝探しのポイントは、館内(もしくは商店街)を散策させることによって、参加者に新たな視点を見せることができるということです。普段は通らないような商店街、店舗の前を通らせることによって、(さらに参加者は目を皿のようにしてチェックポイントを探しています)、お店を認知させることができるのです。

<リアル宝探しは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/34739138.html
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ポケモンは対象年齢が広いので、問題も2種類用意しているのが、良い。「いい大人」も参加して、館内をぐるぐる回っていました。楽しそう。

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キャラものを使ったコラボレーションのお手本だ、と感じました。池袋サンシャインシティの運営のうまさに感嘆です。常々、この池袋サンシャインシティには舌を巻きます。もともとは巣鴨プリズンがあり、極東裁判でA級戦犯らが絞首刑にされたいわくつきの土地です。それが昭和40年代に再開発で現在の姿になったのですが、50年近く前に、このような商業施設(駅直結、高速道路直結、ホテル・コンベンション機能を持ち、地下の広大な駐車場がある)構想を実現させた。さらにはそれが50年近く経っても陳腐化せずに、リニューアルを繰り返し、現在でも先端の商業施設として機能している!施設建設の構想、維持運営いずれにも、完全脱帽です。

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高橋俊雄氏 富士フイルム元代表取締役 最高の人生とは

富士フイルム元代表取締役・専務執行役員の高橋俊雄氏の講演を聞きました。氏は、いわき市出身で磐城高校卒。私の大先輩にあたります。2012年に同社を退職、マネジメント研究所を設立し、企業の組織力強化の指導に当たっている方です。富士フイルムは、2000年ころからコア事業だった写真フィルムの大幅縮小という「本業消失」の危機に直面し構造改革を断行しました。結果は、事業構造を転換させ成長軌道に載せることができています。その富士フイルムの構造改革を推進した経営の神髄を、「強い会社を作る具体的ノウハウ」として伺いました。

「これからの会社のありかた」「強い組織とは」「強い組織の実現のために」のポイントに絞って話して頂きましたが、非常に密度の濃い内容で、1時間では消化不良を起こすくらいの内容でしたが、腹に落ちるところも多かった。

私が理解した範囲でのポイントは、
・現在は変化の激しい環境であり、柔軟性が大事
・周知を集めた総力経営でなければ、経営は難しい
・自社の強みの本質をつきつめた上で、顧客ニーズの本質をつきつめる
・とことん考えた上で、最適解を目指す

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一方、最後に話された「最高の人生とは」「善き人生を送るために」「自分の生き方の確認」を話されたことが、より印象的でした。高次元のご機嫌状態と感情を保つためには、「成長と貢献」が大事。愛し、成長し、充実と感動に満たされ、世のため人のために生きること等が、ひとつの人生の目的ではないかと提案されていました。そんな善い人生を送るためには、自分の人生の目的を明確にし、その目的達成の際の自分の感情と、現在の状況を確認し、その目標達成のためのロードマップを作る。そしてマイルストーンを決めて、今やれることを即、実行に移すべく行動する。です。まるで心理学、キャリアプランの作成のセミナーを受けているかのような錯覚に陥りました。高橋氏が、ハードルは高いけれどもそれに向かって人生を真剣に楽しんできたことがひしひしと伝わってきました。

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いわきの水源地視察 大滝江筋用水路整備トンネルが開通

いわきのメインの浄水場のひとつが「上野原浄水場」、平のいわき市役所もここからの給水を受けています。その浄水場の水源地、取水口が好間側の上流にあります。この取水口は、大館城(飯野平城)築城の際に、城内用水として開発された施設ですので、約600年前のものです。それが改修を経て、現在もわれわれの水道水・農業用水として利用されていることに対して、先人に感謝するとともに、先人の歩みの歴史を感じます。

その取水口・導水路があまりに人里離れた場所にあるため、道路のアクセスがないばかりか、人が行くことにも困難がありました。そのため維持補修に大きな労苦があり、日常の点検はともかく、災害時には落石等による取水口や導水路の不具合が発生時には、重機が使えないため人力で復旧作業をしなければなりませんでした。それを解消すべく、管理用通路兼導水路として整備されたのが、「大滝江筋用水路整備トンネル」です。それがつい最近、開通したとのことでしたので、見せて頂きました。

<大館城跡 飯野平城は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/42231863.html
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画面中央が取水口です。ここがいわき市民の口に入る上水道の起点かと思うと、感慨深いです。いわゆる「好間のV字谷」と呼ばれるところで、現在、徒歩で切り立った崖を這うように進み、身をかがめて隧道を通っていかなければたどり着かない場所にあります。さすがに流れる水はキレイです。こんな場所に取水口を作ろうなんて企画した方の発想力に脱帽です。

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そんな不便な場所なので、そこまで直線で管理用のトンネルを作ろうとしたのが、500m弱のこの大滝江筋用水路整備トンネルです。これまで現場まで徒歩で1時間以上かかっていたところが、徒歩で5分で行けるようになります。また、重機も運べるようになり、管理が容易になると期待されています。

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好間のV字谷は、岩盤(花崗岩・角閃岩)でできた山です。掘削にあたっては一日4回のダイナマイトによる掘削を繰り返したそうです。それでも掘削が進むのは、一日平均4mくらいだったそうです。一般人が利用するトンネルではないので、トンネルの内部仕上げは、とても簡素です。岩盤をくりぬいて掘ったトンネルですから、常磐炭田のような崩落・落盤のおそれは非常に小さいそうですが、コンクリート吹きつけによる補強、ロックボルトによる岩盤改良等が施工されていました。

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取水口近くの出口です。工事期間中も落石があり、管理用の鉄柱等がひん曲がっていました。自然の力は偉大であることを改めて感じるとともに、きれいな浄水を得るための多大な労力を再認識しました。

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浄水場への原水として最大35,900㎥/日、農業用水として36,000㎥/日を取水・導水できます。その導水路がこちら。取水してまだ沈渣池も通っていない段階ですが、すでも水が澄んでいました。水質の良さはかなりのものです。聞けば、取水口より上流には人家の数は非常に限定されているため、生活排水がほとんど入らないのが一番の要因だそうです。

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フラガールズ甲子園 関連イベント 小沼寿恵さんのCD

第5回フラガールズ甲子園が、2015.8.23にアリオス大ホールで開催されています。全国から高校生が集まって、フラを披露する大会です。タヒチアンダンスの回を観劇させていただいたのですが、いずれの高校生も上手で、「振り付け」の練習をみっちりやってきたのが、よく伝わってきました。

会場横の中央公園では、フラガールズ甲子園関連イベントが行われていて、そこに小沼寿恵さんもブースを出していました。小沼さんは女優をやったり、ラジオのパーソナリティをやったりしていて多芸な方で、2013年に田人のこども映画学校 いわき・わくわくしごと塾で偶然お会いしたのが、知り合ったきっかけです。

<こども映画学校 いわき・わくわくしごと塾は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/31279538.html
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今回は歌唱で、「~藍が愛を~」「シルクメロウ」という2つのCDを作ったとのこと。セカンドシングルらしい。「シルクメロウ」は、いわき出身のミュージシャンで「Number the.」の富澤タクさん、「~藍が愛を~」は双葉郡浪江町請戸出身のアーティスト門馬よし彦さんがそれぞれプロデュースしているとのこと。地元ネットワークで制作しているって、スゴイこと。CD2曲を聴かせて頂きました。やわらかい声をゆったりとした曲で、和みました。

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アリオス横の中央公園では、野外ステージが設置され、キッズのストリートダンスが披露されていました。いわきには、無数のキッズ向けダンスクラス、ダンスユニットがあって演じる層は厚いと思います。

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ナイトズー@上野動物園

通常は17:00で閉園する上野動物園ですが、夏休み期間中は日にち限定で、ナイトズー、夜間開園を20:00まで延長して行っています。夜行性の動物を見ることができたりして、それなりに面白い。それに日中はあまりに暑いけれど、17:00以降は過ごしやすく、夜風に吹かれて散歩するのは気持ちがいいです。

そんなナイトズーの特別企画、「かわいそうなぞう」の紙芝居、読み聞かせがありました。お話しの内容は、戦争中、上野動物園で3頭のゾウが、食糧難と人間を襲うことへのおそれから殺されました。これは本当にあった悲しいお話なのです。毎年終戦記念日に評論家の秋山ちえ子氏が平和への願いをこめてラジオで朗読し、テレビでも紹介された名作でもあります。

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三橋とらさんによる紙芝居の口演。この上野動物園で2011年の夏にはじめて、今回で5回目になるそうです。毎年見に来る方もいるそうです。三橋とらさんと一緒に上野動物園の飼育員の方の解説もあり、とてもわかりやすかった。またお話しの対象は子ども向けですが、お話しに引き込まれて思わず、涙してしまいました。

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三橋とらさんの使用機材。ママチャリの荷台に取り付けられた紙芝居セットが、使い込まれている!紙芝居の舞台やタイコという昔ながらのアイテムとともに、ハンディマイクやプロジェクターも併用して使いこなすという、現代版の紙芝居でした。

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ゾウの檻には普段は入れません(当たり前ですが)。本日だけゾウを移して、檻の中を人を開放していました。改めて、檻の中ゾウからはどう見えるかを体感。だからどうしたという話ではないのだけれど。
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普段は「ゾウの展示」ですが、今日だけは「ヒトの展示」になってました(笑)。

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愛谷町ふれあい祭り 焼鳥600本

愛谷町ふれあい祭りの焼き鳥、絶賛調理中。昨年に引き続き、600本に挑戦です。お一人様 焼き鳥2本、焼そば1皿、フランクフルト1本まで無料ですが、カキ氷は1回10円です。今日の天気予報は曇り、気温25度前後でしたが、(日頃の行いが良いせいで)快晴、気温30度を超えました。8月下旬とは思えない暑さです。

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熱いおかげでかき氷がよく売れました。製氷屋さんで仕入れてきた氷、約30個を消費。1皿10円で提供していますが、あえてお客さんの手でかき氷機を回してもらいます。自分で回して作ったかき氷は、さらに美味しいはず。

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定番ですが、焼きそばもやります。1回1kgの麺。ご家庭では絶対に作らない量を、ばんばん作ります。難しいのは味付け。暑くて喉が渇けば、塩っ辛いのが好まれますが、落ち着いて食べる向きには、薄味の方が良い。屋台のプロの仕事をあらためて見直しました。

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ビンゴ大会もやります。9回でリーチ&ビンゴしたラッキーな女の子、一等の賞品は「たぬきそば、1箱」。なんて実用的なゲームなんだろう。

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鯖江藩 幕末の老中 間部詮勝の居城

間部 詮勝(まなべ あきかつ)は、越前鯖江藩主を努め、江戸幕府の老中首座でした。11代将軍・徳川家斉の側近として出世しましたが、水野忠邦の天保の改革でいったん辞職、その後、大老井伊直弼の下で再び、勝手御入用掛と外国御用取扱を兼務する老中に復帰します。業績としては、日米修好通商条約調印の調停からの勅許を得ます。

そんな 幕末の老中、間部詮勝の国許が鯖江藩(現 鯖江市)です。鯖江市は、これまで越前市や福井市等との合併話が登ったものの、現在でもあえて市町村合併の道を選ばず、人口6万人という小都市で独自路線を貫いています。

間部詮勝の居城建設予定地であった、西山公園に間部詮勝の銅像がありました。建設は巨額の資金が必要なため当初からあきらめ、結局、間部詮勝は庭園を整備するにとどめ「「嚮陽渓(きょうようけい)」と命名しました。それが「町立嚮陽公園」となり、「日本の歴史公園100選」に選ばれ、現在の西山公園となっています。

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公園内には、間部詮勝をはじめとした鯖江市ゆかりの人物数人の紹介が「さばえ 人物ものがたり」としてなされていました。

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単に紹介だけでなく、クイズ形式のウォークラリーになっていて、答えを知るためにも次のチェックポイントを探して、散策しなければならない仕組みになっていて面白い。

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公園の頂上部分には、池が整備され、それに乗り出すように茶室がありました。本来であれば居城には天守閣があり、防御のための堀があるのでしょうが、そういったものはここにはありません。

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日本の歴史公園100選に選ばれたのは、必然かもしれません。大正3年には大正天皇即位の御大典記念事業として、嚮陽公園を「西山公園」と改称し、町民総出による修復も行われ、大広場の造営、中腹東側には瓢箪池や藤棚を設置し、全山に桜を植え、県下でも指折りの桜の名所となりました。さらに昭和33年に、市民からの提供も含め2,100株のつつじが植えられたのが、つつじの名所となりました。昭和35年には6,500株となって、第1回「つつじまつり」が行われました。このように、西山公園の歴史は、市民の力で、鯖江藩第7代藩主間部詮勝公が考えたとおり、「春秋の自然に接し、衆と楽しむ」との精神が、連綿とした歴史の中で実現したものだからです。

いわき市平のまちなかにも、磐城平藩安藤家の江戸下屋敷から移植されたツツジの名所、松ヶ丘公園があります。郷土の偉人のひとり、天田愚案の旧居が置かれている場所でもあります。安藤家下屋敷から1,000本、他に全国各地から600種2,000本 合計3,000本を移植したもので、当時は東北一の桜とツツジの公園でした。しかし、それが市民運動にまでならなかったことが、鯖江市の「日本の歴史公園100選」との彼我の差かもしれません。

<安藤信正の銅像は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/43731719.html
 

平七夕まつり

平七夕まつりが、いわき市平まちなかで、毎年8月6日から8日の3日間開催されます。平日であろうがなんであろうが、曜日にかかわらず、日にち固定でにかけて行われます。今年はそれが木曜から土曜にあたるので、客足の視点では非常に良かった。
飾り付けの通りは、東西の通りが、本町通り一丁目から五丁目までと、南北の通りがレンガ通り・銀座通りに、吹き流し等飾り付けがなされ、道ばたには屋台が出ます。アーケードはないので、すべて屋外展示です。

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飾り付けは、各商店がそれぞれ工夫を凝らして毎年作り替えます。この作業負担が非常に重く、飾り付けを断念してしまう商店も見られますが、老舗の時計店「ワタナベ時計店」は、毎年見事な飾り付けを出すことで知られています。この飾り付けにもコンテストがあり、ワタナベ時計店さんは、受賞の常連です。

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今年は某デザイナーさんグループによる、シーラカンスの飾り付け展示もあって、目を引いていました。

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駅南口のタクシープールは、白銀商店街が貸し切って盆踊り大会や各種イベント、屋台等の会場になっています。今年から在京の某ボランティア団体から寄附されたエアードーム(空気でふくらむ屋外テント)が設置され、目を引いていました。

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初日の夜には各地区のじゃんがら大会が披露されました。15チームくらいが参加して17:30-20:00ごろまで続けられます。写真は平商業高校の女子学生によるじゃんがら。清楚で美しく、普段聞く、青年(中年?)じゃんがらとはまた違った魅力がありました。

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夏はかき氷!いわき商工会議所青年部では、かき氷の出店をしました。3日間とも晴天にめぐまれ、連日30℃超えだったので公表でした。

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初日にテント設置、機材準備し、販売するところあたりまでお手伝いさせていただきました。かなり日焼けしました・・・

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仙台七夕おもてなし隊

仙台七夕は、伊達政宗の時代から続いているそうですが、大東亜戦争を機に中断し、戦後復活してから70年を迎えるそうです。3日間で200万人を集める一大イベントです。

基本形は、トップにくす玉、その下に企業名(寄贈者名)、吹き流しです。吹き流しは同じものが五連で、和紙で制作すること。そのフォーマットは同じでも、工夫を凝らしてオリジナリティを出しています。

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まずは企業広告。吹き流しが全面に企業ブランドが記載されているものも。これは吹き流しというよりも、もはや広告塔か?

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商店街に構える自社店舗の前に飾るので、店舗の看板と相まって、目を引きます。

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教育委員会を旗振りとして市内小中学生がそれぞれ一人一羽ずつ負った折鶴が、吹き流しになっていて、壮観でした。仙台七夕では、飾り付けに各種の賞を出していて、当然?大賞作品となりました。

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近くで見ると、折り鶴の量に圧倒されます。作り手の思いと手間が迫ってくるようです。鎮魂の思いと合わせて、胸がいっぱいになりました。
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個人的には、このこけしの吹き流しが好きだなあ。なんとも「コケティッシュ」ではありませんか。

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七夕+短冊のコラボレーションもいくつかみられました。

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仙台七夕は、東西の通り(ハピナ名掛丁商店街・クリスロード商店街・マーブルロードおおまち商店街)は、「中央通り七夕飾り」として屋内展示、南北の通り(一番町四丁目商店街・ぶらんどーむ一番町商店街・サンモール一番町商店街)は「一番町通り七夕飾り」として、屋外展示です。屋内展示は、風雨に無関係に展示できるので、主催者側としてはやりやすいのでしょうけれど、屋外展示の竹をしならせて展示する方が、個人的には好きです。

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仙台七夕には欠かせない七つ道具といわれる飾りものがあるそうです。この飾り物には昔から、それぞれに意味があり、吹き流し等のどこかに必ず付いているそうなので、探してみると面白いかも。

・吹き流し 織姫の織り糸を象徴し、昔の織り糸を垂らした形を表して機織や技芸の上達を願う。くす玉が最上部飾られ、飾り付けの主役。
・巾着(きんちゃく) 金銭を入れて腰に下げたもの。富貴を願いながら、節約、貯蓄の心を養う。しっかりとひもで結ばれ、無駄遣いを戒めています。
・投網(とあみ) 仙台近海の豊漁を祈願。また、幸運を寄せ集める。
・屑篭(くずかご) ものを粗末にしないで役立て、清潔と倹約の心を育てる。
・千羽鶴 家の長老の年の数だけ折り、延命長寿を願う。
・紙衣(かみごろも) 神に捧げたという衣。
・短冊 学問や書、手習いの上達を願う。
 
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 市民ボランティア「仙台七夕おもてなし隊」の姿を多く見かけました。仙台駅周辺から定禅寺通付近までの16カ所で、写真撮影の手伝い、会場や飲食店の道案内、七夕飾りの簡単な説明などを担当していただいたそうです。スタッフにとっては、仙台七夕の歴史などを学び、かつ、祭りを盛り上げることに貢献できるということもあって、この取組みはおもしろいと思いました。

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平のまちなかにも、あります。この穴。七夕祭りのため「だけ」に存在する、竹を支える穴です。

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御文庫付属室 内部の映像が50年ぶりに公開

昭和天皇が終戦を決断した皇居地下の防空壕「御文庫付属室」内部の映像が、この夏に50年ぶりに公開されました。今は朽ち果てた会議室で昭和天皇はどのような思いで決断したのか。いつ建設され、どのように使用されたのか、いろいろ疑問が湧いてきます。

メインが、この御文庫付属室の会議室です。終戦に向けた1945年8月10日と14日の御前会議で昭和天皇が終戦の「聖断」が下されました。その場所が、70年前を経て、床などが完全に朽ち果てている状態で、手を加えられずに保存されています。今後も、保存措置を取る予定はなく、今後も手を加えずに管理するそうです。歴史を証拠として、ぜひ保存措置をとって欲しいと思います。
 
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1945年8月14日の御前会議は、閣議と最高戦争指導会議の連合会議であり,出席者は首相の鈴木貫太郎をはじめとする全閣僚に加え、参謀総長梅津、軍令部総長豊田、枢密院議長平沼、内閣書記官長迫水、総合計画局長官池田、陸軍省軍務局長吉積等であったとのこと。この御前会議では、天皇は戦争終結の反対論を聴取したのち,「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ 内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ……戦争ヲ継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル即チモトモ子モナクナル 今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル……自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ 速ニ詔書ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ」とおっしゃられ、聖断を下したといわれています。そしてこの会議が、最後の御前会議となりました。
 
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60平方メートルの会議室や空気清浄機が置かれていた機械室などがありましたが、現在は朽ち果てて、何の機械かも判別しがたい。写真は地下に空気を送り込む送風機でしょうか。「兵どもが夢の後」を思い出します。
 
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地下につながる廊下には土砂が、一部流入してしまっています。

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御文庫付属室は、東条英機陸相が陸軍築城部本部に防空壕を造るよう指示し、皇居の警衛を担当する近衛第1師団が1日平均1500の兵隊(!)を動員して、完成させました。厚さ3メートルの鉄筋コンクリートで外壁を築いた、250キロ爆弾に耐えられる堅固な空間です。場所は、昭和天皇の住まわれていた御文庫から北東に約100メートル離れた小高い丘です。

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現在の地上の御文庫外観です。

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出入り口は東西に2カ所あり、約22メートルの通路を通って内部に入ります。御前会議が開かれた会議室は60㎡程度でした。会議室だけでなく、通信室・機械室・トイレもあって、長時間、防空壕として利用できる設計になっていたようです。

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地上出入り口は、通常封鎖されていますが、逆に言えば、戦後、手を加えられずにそのままの状態で保存されています。
 
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約22メートルの通路を通って内部に入ります。

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地下廊下。鋼鉄製の扉の厚さがわかります。

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注)写真は、2015年7月に宮内庁が撮影、公開しているものです。また図表は読売オンラインから転載させていただいております。

【開催予告】いわき駅発のサイクルトレイン

【拡散希望】JR東日本の商品「びゅう」で、一編成限定で「サイクルトレイン」(バイシクルトレイン)を発売中!自転車をそのまま列車に持ち込めて、いわき駅から40km先の磐越東線の神俣駅まで運んでくれるというもの。後は、木々の緑の中を道路沿いにのんびり自転車で下ってくるだけ。自転車初心者・親子連れ・ママチャリでもOK。いわきの山間部の魅力を、自然の風・香り・音を発見出来る、小さな旅です。自動車では感じられない感動を、自転車なら体験できる貴重な機会です!私はもちろん参加します!
 
出発日:8/29(土)10:30amいわき駅発→11:35am神俣駅着
費用:2,000円(こども1,500円)
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ポツダム宣言13箇条 日本の無条件降伏ではなかった

ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が、終戦直前の1945年7月末に集まりました。メンバーは、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンです。その目的は、第二次世界大戦の戦後処理(ポツダム会談)です。

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左からチャーチル首相、トルーマン大統領、スターリン首相

ポツダム宣言は、この会談の期間中7/26に、米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石国民政府主席の共同声明として発表されました。その後は、日本政府は8/14にポツダム宣言の受諾を通告し、9/2に東京湾浦賀沖に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表(シンガポール陥落時のトップ、パーシバル中将も同席)が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印しました。

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ポツダム宣言は13箇条から構成されていますが、1-4条は、戦勝国らの高らかな勝利宣言と、敗戦国に対する最後通告を示すもので、具体的なものはありません。要求条件は6-12条の7項目のみです。特筆すべきは13条「我々は、日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について十分に保障することを求める」です。「日本」が無条件降伏するのではなく、「日本軍」の無条件降伏なんですね。

<原文>
Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender
Issued, at Potsdam, July 26, 1945
1.We-the President of the United States, the President of the National Government of the Republic of China, and the Prime Minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that Japan shall be given an opportunity to end this war.
2.The prodigious land, sea and air forces of the United States, the British Empire and of China, many times reinforced by their armies and air fleets from the west, are poised to strike the final blows upon Japan. This military power is sustained and inspired by the determination of all the Allied Nations to prosecute the war against Japan until she ceases to resist.
3.The result of the futile and senseless German resistance to the might of the aroused free peoples of the world stands forth in awful clarity as an example to the people of Japan. The might that now converges on Japan is immeasurably greater than that which, when applied to the resisting Nazis, necessarily laid waste to the lands, the industry and the method of life of the whole German people. The full application of our military power, backed by our resolve, will mean the inevitable and complete destruction of the Japanese armed forces and just as inevitably the utter devastation of the Japanese homeland.
4.The time has come for Japan to decide whether she will continue to be controlled by those self-willed militaristic advisers whose unintelligent calculations have brought the Empire of Japan to the threshold of annihilation, or whether she will follow the path of reason.
5.Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
6.There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.
7.Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan's war-making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the Allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth.
8.The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.
9.The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.
10.We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
11.Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese participation in world trade relations shall be permitted.
12.The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.
13.We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

<邦訳>
ポツダム宣言
千九百四十五年七月二十六日
米、英、支三国宣言
(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)

一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ
四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ
五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
  吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

<現代語訳>
日本の降伏のための定義および規約
1945年7月26日、ポツダムにおける宣言
1.我々(合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣)は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
2.3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
3.世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
4.日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
5.我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
6.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
7.第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
8.カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
9.日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
10.我々の意志は日本人を民族として奴隷化しまた日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
11.日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
12.日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。
13.我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。

開戦の御詔勅 米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書 戦争を避けるためには

先日、終戦の御詔勅(いわゆる、玉音放送)の全文を初めて読む機会がありました。それでは「開戦」のほうはどうかというと、やはり同様の詔勅があります。こちらはラジオ放送されておらず、文章のみが残されており、開戦にいたる背景・理由が率直に書かれていました。日付は、平成16年12月8日は、まさに真珠湾攻撃をした当日です。

読むべきは、「開戦に至る背景と理由」です。
・重慶の蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である中華民国南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。
・米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する野望である。
・米英両国は、日本の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついには意図的に経済断行をして、日本の生存に重大なる脅威である。
・米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとしていて、その間にもますます、
経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって日本を屈服させようとしている。
・このような事態がこのまま続けば、日本の存立も、まさに危機に瀕することになる。
 
日本史の教科書は、常々、戦勝国の視点で記載されているといわれており、大東亜戦争も「狂信的な軍国主義者が引き起こした」「無謀な」戦争というトーンで語られることが多いと思います。この開戦の御詔勅をきちんと読めば、世界情勢の中で当時の日本の置かれた立ち位置や、政策オプションが限定されていたことがわかります。当時から、どうにかして米英と平和的に通商を続けたいという思いが滲んでいますが、結果的に戦争を選んでしまった。将来の戦争を引き起こさないためにも、単に戦争反対を叫ぶことではなく、どのようにして戦争を回避できるかを、歴史に学ぶことが大切だと思うのです。

私の解釈としては、当時日本が国際社会から孤立してしまったことが最大の要因です。当時は西欧諸国がアジアを含めた植民地拡大政策をとっており、有色人種は(一部の層には)人間と見なされていませんでした。そんなアジアの最果てにある日本が、一等国入りしようとしていて、実際、ワシントン海軍軍縮条約で英米と肩を並べるほどの工業力・軍事力を備えたことに、人種的な脅威を感じた部分もあったのではないでしょうか。また彼らが有するアジアの植民地に割って入っていったことも、大きな脅威だったのでしょう。その意味では国際的な孤立はやむをえない面があった。そういう意味では、高度な判断として、当時の国際社会の主流であった英米諸国に対して、彼らのベネフィットにもなるような根回し・交渉・裏工作・圧力・人材交流等、何でもやるべきだったと思います。声高に戦争反対を叫ぶだけでは、同じような状況になったときに戦争が起きるおそれがある。普段から、そうならないよう、いろいろなオプションを持ち、知恵を使い、行動し、努力をし続けなくてはならないと思います。
 
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<原文>
太平洋戦争 開戦の詔勅  (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ
勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ
達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル
皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ
樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル
洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ
東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ
帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ
相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ
逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル
妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復
セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ
益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル
帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲
蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ
遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

御名御璽
平成十六年十二月八日

 
<現代語訳文>
神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。
私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、
私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、
一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。
そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、
その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、
私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、
帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。
まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。 中華民国政府は、
以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に
武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。
さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、
ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である
南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、
東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。
あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の
平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を
加えている。
私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、
米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、
経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、
ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。ことここに至っては、
我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。
皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、
すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。


<読み下し文>
天佑(てんゆう)を保有(ほゆう)し、万世一系(ばんせいいっけい)の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に
忠誠(ちゅうせい)勇武(ぶゆう)なる汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)に示(しめ)す。
朕(ちん)、茲(ここ)に米国及(およ)び英国に対して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕(ちん)が陸海将兵(りくかいしょうへい)は、全力を奮(ふる)って交戦に従事し、朕(ちん)が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)は、励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し、朕(ちん)が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)其(そ)の本分を尽(つく)し、億兆(おくちょう)一心(いっしん)にして国家の総力を挙げて、征戦(せいせん)の目的を達成するに遺算(いさん)なからんことを期(き)せよ。
抑々(そもそも)、東亜(とうあ)の安定を確保(かくほ)し、以って世界の平和に寄与(きよ)するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考(こうそこう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述(さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう)にして、朕(ちん)が拳々(きょきょ)措(お)かざる所(ところ)。
而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤(あつ)くし、万邦共栄(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(これまた)、帝国が、常に国交の要義(ようぎ)と為(な)す所(ところ)なり。今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至(いた)る。洵(まこと)に已(や)むを得(え)ざるものあり。豈(あに)、朕(ちん)が志(こころざし)ならんや。
中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解(かい)せず、濫(みだり)に事を構えて東亜(とうあ)の平和を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(かんか)を執(と)るに至(いた)らしめ、茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣(ぜんりん)の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携(ていけい)するに至(いた)れるも、重慶(じゅうけい)に残存(ざんぞん)する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(いま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)めず。
米英両国は、残存政権を支援して、東亜(とうあ)の禍乱(からん)を助長(じょちょう)し、平和の美名(びめい)に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(せいぞん)に重大なる脅威(きょうい)を加う。
朕(ちん)は、政府をして事態(じたい)を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延(せんえん)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、以って我を屈従(くつじゅう)せしめんとす。
斯(かく)の如くにして、推移(すいい)せんか。東亜安定(とうああんてい)に関する帝国積年(せきねん)の努力は、悉(ことごと)く水泡(すいほう)に帰し、帝国の存立(そんりつ)、亦(またこ)正に危殆(きたい)に瀕(ひん)せり。事既(ことすで)に此(ここ)に至る帝国は、今や自存自衛(じそんぼうえい)の為、蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうがい)を破砕(はさい)するの外(ほか)なきなり。
皇祖皇宗(こうそそうそう)の神霊(しんれい)、上(かみ)に在(あ)り、朕(ちん)は、汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)の忠誠勇武(ちゅうせいぶゆう)に信倚(しんい)し、祖宗(そそう)の遺業を恢弘(かいこう)し、速(すみやか)に禍根(かこん)を芟除(せんじょ)して、東亜(とうあ)永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全(ほぜん)せんことを期(き)す。

天皇の署名と印
昭和十六年十二月八日

終戦の御詔勅 日本史の教科書に掲載すべき

終戦の御詔勅(いわゆる、玉音放送)の現代語訳を初めて読みました。戦後70年というときの起点が、まさにここ。起点を明らかにし当時の思いを知ることは大事だし、その内容に心が震えました。

戦争開始の理由、戦争終結の理由、協力国への配慮、今後の誓い等、日本からみた情勢分析、将来の活路等、率直で的確だと思います。「日本メディア史上、最高の放送」とのことですが、同感です。全文をあらためて読み返したいです。
 
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特に、以下4点について自分はよく理解していませんでしたが、日本からの視点で極めて現実的かつ建設的に状況分析と将来展望が書かれていることに驚きました。公式文書でもあり、戦勝国視点の歴史でなく、国史としての日本史の教科書に、ぜひ全文を掲載すべきだと思います。

1)戦争開始の理由:
「アメリカやイギリスに戦争をいたしますと言って始めました理由もまた実に大日本帝国が自分の力でなんとか生きて行くことと東アジア地域の平和とをいろいろと考え工夫してやって行こうとしたところから始まった事で
他の国の持っている権利をないものにしたりその国の土地を奪うなどということはもともと私の心にはありません」
 
2)戦争終結の理由:
「敵は新しく作った残虐な爆弾を使って(原子爆弾)しきりに何の罪もないものを傷つけ殺し惨憺たる被害が及んでいて、こんな事はほんとうに思ってもみないことでこうなってしまった。今変わらず戦いを続けるか最終的には我々が地球上から消されてなくなるだけでなく、そこから人類の文明さえも破壊し焼き付くし捨て去ってしまうこのような状況になっていくであろう」
 
3)東アジア諸国の協力国への配慮
東アジアの解放に協力してくれたアジアの国々に対して申し訳ない気持ちを表さないではいられません。
 
4)今後の誓い
「こらえること」が困難なことを「こらえ」、「やりすごすこと」が困難なことを「やりすごし」、そうすることでこれから続くこの国のいく万の子孫のために戦争を終わらせ平和な世界を開きたい。
 
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<全文>
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
 
御名御璽
昭和二十年八月十四日

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内閣総理大臣談話 戦後70年

終戦記念日の前日8/14に、安倍晋三首相から、内閣総理大臣談話が発表されました。その内容は、大東亜戦争に対する内閣の公式見解です。これまでこうした「談話」など、あまり注視してきませんでしたが、戦後70年の終戦記念日を機に改めて読み直してみました。この談話を作成するにあたっては、首相の諮問機関「21世紀構想懇談会」の報告をベースに作成されたものだそうですが、関係各国・関係者の立場を理解した上で、我が国のあるべき立ち位置を明確にしているという点で、非常によく練られた文章だと思いました。またあいまいにすべき点については、あえて明確にしないという点も良かったのではないか。

<内閣総理大臣談話の全文は、コチラ>
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html 

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全体としては、悲惨な戦争と引き起こしてしまった深い悔悟を踏まえ、二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないことと、これまでもそしてこれからも「積極的平和主義」を掲げて行動していくことを明記し、歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ぶべきこと、これまでの尊い犠牲の上に、現在の平和があることを明らかにしました。

個人的に腹に落ちたのは、以下の2点。

1. 大東亜戦争を引き起こした原因は、(狂信的な軍国主義でなく)、対外的な孤立であったこと
当時、多くの植民地を支配していた欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ経済のブロック化を進めると、日本は孤立し、行き詰まった。さらに日本は外交的、経済的にも多い詰められ、その解決を南方への資源確保に求め、戦争への道を進んでいった。具体的には、国際秩序であった国際連盟からの脱退、そして次第に針路を誤っていった。

2. 戦争責任を次の世代に負わせないこと
当時の戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない。

これまで、ややもすると戦争は狂信的な軍国主義が引き起こしたものであり、またその戦争責任は未来永劫、日本人が背負っていくものだという、誤解・曲解があったと思います。それを冷静に論破し、歴史を踏まえた未来思考へ巧みに修正した点は、特筆に値すると思います。

この談話は閣議決定された上での公表ですので、対外的にも公式の立場を明らかにし、その後の政府の見解にも影響を及ぼすので、非常に大きい意味があります。 

終戦記念日の8/15@靖国神社 終戦70年 若者の集い

終戦記念日の8/15に、靖国神社に来ました。終戦70年 若者の集いに参加。今の平和の礎となった先人たちに感謝し、畏敬する集いです。

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今日の靖国神社はたくさんの一般の参拝者で埋め尽くされていて、終戦に対する関心の高さを改めて感じます。
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境内は静かで落ち着いた雰囲気の一方、外に出ると主義主張を声高に叫ぶ方、特定の宗教関係者、そして参拝者の安全確保の警備等で、かなり騒がしい。報道関係者も多い。参拝者の先人たちに対する真摯な感謝と畏敬の思いを捻じ曲げずに報道して欲しいです。

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それにしても、「若者の集い」というタイトルの通り、20代30代の若者の参加者、特に運営メンバーの若さには驚かされました。いわゆるミリタリーオタクとか戦争を賛美する層ではなく、シンプルに戦争に至った背景や当時の世界の流れを知りたい、先人達が何を思い、何を決断し、何を守ろう、残そうとしたかを知りたいと行動しています。自分たちの世代に何ができるかを、自分たちの足で考えたいという若者が増えていることに頼もしさを感じました。

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じこまん3 完結?!

衝撃。自転車中年向けの指南書、じこまんが終わってしまった。1.2巻を読んで完全に、玉井雪雄氏のファンになっていたのに、なぜかラストに、完結の文字が・・・

1巻では、自転車乗り(ロードバイクに乗るから、ローディと呼ぶ)のうんちく話から、失敗話。自転車をこいでいるときの、脳内多幸感のイメージは、非常に共感できるものがありました。

<じこまん1.2は、コチラ> 
http://www.mikito.biz/archives/22059499.html
http://www.mikito.biz/archives/44143597.html

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ファンとしては、もっと読みたかったです。 いろいろ事情があっての完結だと思いますが、玉井さんが自転車に乗り続けてる限りは再開もあるかも。期待したい。

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ファーム白石さんで芋掘り 味気が出る野菜

ファーム白石さんで芋掘りをさせていただきました。代表の白石長利さんは小川地区で3代続く篤農家です。農家と消費者を直接つながることにより、お互いの顔が見え、よりよい生産、よりよい消費ができるのではないかと模索されています。いわゆる農業の6次化商品にも取り組まれていて、地元シェフとともに、ネギドレッシング等の開発もされています。

<焼きねぎドレッシング by ファーム白石は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/34729528.html
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今回は、1ha近いファーム白石さんの畑(その他に、田んぼもあります)にお邪魔して、「あかつき」という品種の芋掘りをさせていただきました。ちょっとだけ農業体験です。お隣では白石さんのお父さんが、ネギ畑の雑草取りをされていました。ネギ以上に雑草の繁殖力が圧倒的に強い。雑草に埋もれてネギが生えているようです。

ファーム白石さんでは、化学肥料・農薬に頼らない土の力を引き出す農業をされていて、それにより無農薬野菜ができることになります。目的として無農薬野菜を目指しているわけではなく、結果としてそうなっている、その順番が実は大切なのだそう。

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この酷暑の季節は早朝から作業し日が完全に昇ったときにはいったん休憩。午後日が陰り始めてから再度、草取りの作業を始めるそうです。最近、大きな雨が降っていないので、野菜も、ややしおれているように見えます。それでも逆に水がないことで、野菜は生命力が強くなるし、甘みが出るということもあるそうです。

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「シシトウ」をいただきました。雨が降らないと。シシトウは辛みが増すんだそうです。

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いただいたジャガイモは、その日のうちにゆでて塩バターで食べました。作った人の顔が浮かび、その人の生産する思いを感じながら食べると、味に深みがでますす。これが「味気が出る野菜」ということなのでしょうか。

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福島県×リアル宝探し コードF-5 ほとんど知られていない残念企画

ふくしまデスティネーションキャンペーン特別企画「福島県×リアル宝探し コードF-5」が、9/27まで開催されています。福島県の企画なのですが、いわき市内ではあまりに認知度が低い企画なので、ほとんど話題に上っていないのが現状です。実はこのコードF-5は、過年度からの毎年の継続で実施されている企画です。以前はF-2~F-4として実施されていました。

要は、なぞなぞとスタンプラリーとのコンビネーション。宝箱(問題文のあるところ)を探し、暗号を読解し、最終的な宝箱を探すというフィールドゲームです。この企画は、民間のタカラッシュ!さんが開発したもののようで、全国の自治体等で実施されています。私も過去に東京で参加しましたが、とても楽しく終えることができ、地域のことをより深く知ることができたことを記憶しています。

背景・シナリオ・世界観はこんな感じ。特務機関レッドカウ。日本中に眠る未解明の秘宝・財宝などを調査、回収するために組織された国家直属の超法規的機関である。福島県の各地で解読不能な暗号で構成された地図が発見されるという事例が複数報告されていた。福島県からの依頼により調査を開始した我々は、この地図を「コードF」と名付け、福島県全域のから“宝”を見つけ出すのだ。

<文京区理想橋伝説スタンプラリー by タカラッシュは、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/34739138.html
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うーん。タカラッシュが提供するプラットフォームは面白いし、なぞなぞや解読のネタも悪くないと思います。残念なのは、福島県全域が調査対象となっているので、あまりに広域過ぎることです。普通の一般人で、すべての調査地点を踏破するのは、もはや無理(何日かかるか、到底想像できない)なことです。かつて私が東京で体験した、同じタカラッシュの企画では、文京エリア限定だったので、10カ所くらいのポイントを自転車で探し出し、謎を解き、最終ゴール地点まで、まるまる一日を費やして、ゴールまでたどり着くことができました。近いけれど訪れることのなかった商店街や、通り等を踏破し、あらためて地域を深く知ることができ、満足しました。しかし福島県のコードF-5は、福島県全域が調査対象なので、自転車で回ることが事実上できず、自動車が必須で、それは高校生以下の参加ができないことを意味しています。大人(それも、こんな遊びに数日もかけることができる、ある意味、暇人)限定の、根気が必要なファン企画は、そもそも無理がある。

内容がどんなに良くても、ほとんど知られていない残念企画となるのには、きちんとした理由があります。
 
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「生命大躍進」脊椎動物のたどった道 5回もの生物絶滅の危機

「生命大躍進」脊椎動物のたどった道が、国立科学博物館の特別展で開催中です。地球の誕生からはじまり、人間にいたるまでの過程のうち、脊椎動物に焦点をあてて紹介しています。とはいっても恐竜以前から話は始まるわけで、遠大な説明になってしまっていました。

白亜紀に、クレーターの衝突を原因とする地球環境の激減で、恐竜等の大生物が絶滅したのは有名な話。でも、カンブリア紀から現在までの5億4000万年の間に、それ以外に4回も生物の種の9割以上が絶滅した時期があったことを知りました。それを5大絶滅事件、別名ビックファイブというらしい(1. オルドビス紀末、2. デボン紀後期、3. ペルム紀末、4. 三畳紀末、5 白亜紀末)。我々人類が生きているのが、奇跡、といわざるを得ないことをあらためて感じます。

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大がかりな立体模型の展示は、太古の生物の進化の過程を想像させてくれます。

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一番の関心事は、なんといっても人類の進化の歴史。アウストラロピテクスから始まる猿人・原人・旧人・新人の頭蓋骨のホンモノが展示されていました。教科書ではおなじみのアウストラロピテクスにも何種類ものバージョンがあることを初めて知りました。

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こちらはジャワ原人の頭蓋骨。何世代、何十世代、何百世代と交配を繰り返し、生き残るための進化と、DNAの突然変異を組み合わせて、現在の人類、自分につながっているかと思うと、気の遠くなる時間と、連綿とした人類の悠久の歴史を感じます。先人達の歩みの上に、われわれ現代人の生活があることを実感します。

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磐城飛行場 特攻教育隊の基地(現在の福島第一原発)

戦後70年。戦時中は「磐城飛行場」(別名、長者ヶ原陸軍飛行場)、いわゆる特攻の練習基地として利用された場所に、2011年の東日本大震災で事故を起こした福島第一原子力発電所が立地しています。国の重大危機にかかわることに、同じ場所が関わっていることに因縁めいたものを感じます。

磐城飛行場の敷地は、1940年に旧日本軍が用地を取得し、熊谷飛行隊磐城分校、宇都宮飛行学校磐城分校という形で発足し、磐城飛行場特別攻撃教育隊として使用されました。滑走帯としては1,300m×1,200mの広さがあり、路面はコンクリート・アスファルト舗装ではなく、全面芝張りの滑走路だったようです。これらの資料が、「千の証言展」で展示されていました。

<千の証言展は、コチラ>
http://www.mikito.biz/archives/44975262.html 
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終戦間際の8月9日には、双葉沖200カイリに空母ほか16隻の機動部隊が出現し、磐城飛行場は艦載機群による攻撃を受け、格納庫、練習機が機銃掃射で破壊されます。さらに翌10日には、焼夷弾爆撃を受けます。その様子が爆撃している米軍艦載機そのものにとりつけられた「ガンカメラ」にしっかりと記録されています。
 
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それにしても、米軍の写真・動画記録にかける執念には、驚かされます。

<福島県内への攻撃【ガンカメラ】:ログイン要>
http://video.fc2.com/ja/content/20140419Nsd7YptZ/
http://nicogame.info/watch/sm24609503

発電所にほど近い60m程の小高い丘の東電展望台には「磐城飛行場跡」の石碑が置かれているらしい。石碑が立つのは兵舎の跡地だそうです。

「磐城飛行場跡記念碑」(全文)
この地起伏少なき松山に、農家散在す。昭和15年4月国家の至上命令により突如、陸軍で飛行場建設決定、住民11戸移転直ちに着工す。当時、工法はトロッコにスコップで手積み、人力で押し逐次軌道延長整地す。作業人夫は請負業者と郡内外の青年団、消防団、大日本愛国婦人会、学徒一般民等献身的勤労奉仕で半ば強制作業で工事が進められた。この地水源なく志賀秀孝氏の井戸より送水使用す。17年早春、宇都宮飛行学校磐城分校発足。20年2月磐城飛行場特別攻撃教育隊として独立。日夜猛特訓を受け第一線配属若者が、御国のため大空に散華す。20年8月9、10日、米軍空母艦載機の大空襲で施設破壊亦各地方の被害甚大なり。20年8月15日終戦となる。
その後一部農地開拓す。昭和23年日本国土計画で中部以北塩田化海水陽げ天日式で濃縮、旧長塚駅近くまでパイプで送り製品化す。34年イオン樹脂交換製塩発達のため閉じる。亦塩田以外の地23年旧地主に払い下げ25年植林す。37年東京電力株式会社原子力発電所建設候補地となり39年買収41年本着工現在に至る。思い出大き、この地忘れろるを憂い終戦43回忌に当り大戦で亡くなられた人びとの御冥福と恒久の平和を祈り、兵舎跡地にこの碑を建立す。
昭和63年8月15日
磐城飛行場跡記念碑建立有志会
大熊町長 志賀秀郎
建立発起人代表及び撰文
長者原 杉本正衛
東京電力(株)福島第一原子力発電所所長 
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磐城飛行場は陸軍の所管で、九五式一型練習機(一部九五型三式)約60機が配備されていたようです。木製骨組み合板・羽布張りの主翼と鋼管骨組みに羽布張り(はふばり、要は布製!)の胴体を持つ複座の複葉機で、脚支柱は直接胴体付。機体の色が橙色であったので、複葉機の形と相まって「赤トンボ」と愛称された機体です。磐城飛行場を基地にして海上の漁船を敵艦に見立てて特攻訓練を行ったのでしょう。ただ、艦載の迎撃戦闘機のスピ-ドが600km/h近いというのに、時速300km/hに満たない複葉機が(さらに爆弾を抱えて遅くなって)特攻するのだから、打ち落とされることが多いのは必然でした。それでもこの複葉機で特攻訓練を続けた、我々の先人達の思いはいかばかりか。
 
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注)写真はネット上から拾い集めたものです。

明治生命館 ACJ連合国対日理事会 一般公開

太平洋戦争戦後、占領下の日本では、連合国対日理事会(Allied Council for Japan、略称:ACJ)が置かれました。これは、アメリカ、イギリス、ソ連、中国の4ヵ国代表から成る連合国の合同理事会で、その会議は日比谷のお濠端にある、明治生命館2階の会議室で行われました。明治生命館自身が重要文化財なのですが、2000年以降に、近代的なオフィスビルとして内部がリニューアルされており、私自身2年間ほどこの明治生命館で勤務したことがあるので、思い出深い建物です。当時は6階で働いていましたが、2階にあるACJ会議室は当時非公開でした。その部屋が当時のまま、一般公開されていました。

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対日理事会は、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、インドの7カ国で構成され、太平洋戦争に敗北した日本を連合国が占領するに当たり、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の諮問機関として設置されたものです。しかし実際には、マッカーサーが独断専行し、対日理事会としばしば利害が対立したそうです。結果的には、日本へ物質的にも人的にも多大な関与をしたアメリカが主導することにより、アメリカ人である連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーにすべての権力が集中することになりました。

この部屋が対日理事会が開催された部屋。調度品は当時のままに残されているそうです。ここで連合国7カ国の代表がずらりと並んで、日本における権益、自国の利益をかけて、喧々ガクガクの議論をしたのか。そしてマッカーサーがそのメンバーを説き伏せたかと思うと、胸が熱くなります。
 
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明治生命館が立つ丸の内地区は、もとともは三菱財閥の2代目、岩崎弥之助が草ぼうぼうの野原を政府から一括購入し、いちから開発した場所です。当時は、「明治23年、政府はいよいよもてあまして、三井、渋沢、大倉、岩崎らの富豪を招き、懇願的に払下げの相談におよんだところ、誰一人引受人がなく、結局、岩崎が貧乏くじを引いたつもりで、10万7030坪弱を130万円弱(現在の貨幣価値で約130億円)、すなわち坪10円強で払い下げた」。弥之助は、側近に「あんなところを買って、どうするのですか」と言われ、「なに、竹でも植えてトラでも飼うか」と大笑いしたそうです。

明治25年、三菱は一号館、二号館の基礎工事に着手。荒れ野だった兵営跡地を整然としたレンガ造りのオフィス街へと変貌させ(三菱二号館が完成した当時は東京駅がなく、ポツンと中層ビル街が出現したようでした)、大正9年には丸の内は名実ともに日本経済の中心地「一丁ロンドン」となりました(日露戦争前後に東京駅が完成し、東京駅周辺が日本の中心に移りました)。

そんな三菱二号館ですが、1895年築ですから築後30年余りを経過し、建替えられたのが、現在の明治生命館です。1930年に起工し、1934年に竣工。太平洋戦争後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収。アメリカ極東空軍司令部として使用され、対日理事会の第1回会議は明治生命館2階の会議室で行われました1956年に、アメリカ軍から返還されました。
 
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大理石をふんだんに使ったロビーは、ふんだんに建築費が投入された証拠。大理石のいくつかには、アンモナイトの化石を見つけることができました。

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2階には、当時の役員が使用したと思われる食堂があります。整然と並んだ上質の椅子と、柔らかみを帯びたデザインのお部屋ではどんな方々が一緒に食事をしたのでしょうか。昔日に思いを馳せます。

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食堂は、地下フロアにあった厨房室で調理されたものが、サーブ専用のエレベータ3基で運搬されてくる仕組みでした。これにより厨房の熱気や喧騒から離れて、落ち着いて食事をしたのでしょう。現在、地下は有名飲食店がテナントとし入居し、営業をしていますが、オフィスの食堂と地下の厨房が一体でつながっていることは、おもしろい。

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明治生命館にある、もうひとつユニークは設備が「メールシュート」です。要は郵便ポストなのですが、各フロアにあるメールシュートに郵便物を入れれば、専用シュートを自由落下で落ちていき、1階にある集荷箱から自動的に郵便が送られるというものです。これはグッドアイデア。

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1997年、昭和の建造物としては、初めて重要文化財の指定を受けています。

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玉音放送 玉音盤の原盤 初公開 

昭和20年8月、昭和天皇がラジオを通じて国民に終戦を告げた「玉音放送」の(ぎょくおん)音声を記録したレコード盤「玉音盤」の原盤の音声が、戦後70年を経て初めて公開されました。

<玉音放送は、コチラ>
http://bit.ly/1IjMomL

「玉音盤」は、昭和天皇が、ラジオを通じて国民に終戦を告げるため、終戦前日の昭和20年8月14日に録音し、翌15日正午からのいわゆる「玉音放送」に使われたものです。この8/14-8/15にかけての24時間は、8/8公開予定の映画「日本のいちばん長い日」でじっくりと描かれるのでしょうね。

<映画「日本のいちばん長い日」は、コチラ>
同時に昭和天皇が終戦の「聖断」を下した皇居内の地下施設・御文庫(おぶんこ)付属室の写真や映像も公表されました。ぜひ歴史の証拠として、永久保存してほしい。

2015.7.15に宮内庁に公開された御文庫の地上外観は、いたって普通の平屋建ての建物に見えます。御文庫付属室(地下施設)は、御文庫(地上施設)・吹上御殿と地下道でつながっているそうです。

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70年の年月を経て朽ち果てた、御文庫の地下会議室。ここで最後の御前会議が開催され、天皇が終戦を聖断されたところかと思うと、「兵どもが夢の後」です。

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注)写真は宮内庁HP、図は読売オンラインから転載しています。
 

マッカーサー記念室 3年ぶりの特別公開

日比谷のお濠端に立つ、第一生命本社ビル。その6階に、マッカーサールームが当時のまま、永久保存されています。建設当時は、第一生命社長室として使われた部屋は、戦時中は日本の陸軍により接収されて陸軍幹部の部屋となり、戦後は、GHQ接収後マッカーサーの執務室となった部屋です。

マッカーサーは、執務室のこもることが多く、絶対的な権力を持つGHQのトップ連合国軍最高司令官として、日本政府に対し無数の指令・命令をこの部屋から出しました。マッカーサーの日常は、住居であったアメリカ大使館を午前10時30分に出て、第一生命ビルで執務。午後には大使館に帰って昼食をとり、短時間昼寝した後、再び第一生命ビルに戻り、夜遅くまで執務していました。部下にも重労働を強いたそうですが、自身もよく働き、目がかすんで時計の針がよく見えなくなるまでオフィスを離れようとしなかったそうです。クリスマスはおろか自分の誕生日もお構いなしに、一週間丸7日ぶっ通しで働いたと伝えられています。
 
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部屋の広さは、約54㎡(約16坪)で、内装や調度品は、マッカーサーが使用していた当時のままです。インテリアは英国のチューダー王朝風です。壁に飾られた2枚の絵は、英国人画家F.J.オルドリッジによってか描かれた「アドリヤ海の漁船」と「干潮」です。マッカーサーはヨット好きだったので、接収時もこの絵をそのまま飾っていました。

机と椅子は、昭和13年の第一生命館が建てられた当時に据え付けられたものです。マッカーサー元帥は非常に几帳面で、かつ何事も即断即決するため、引き出しのないこの机を愛用したそうです。見た目以上に、非常にシンプルで、豪華さはほとんどありませんでした。日本の権力のトップに5年にわたって君臨し続け、アメリカ大統領候補とさえいわれた、マッカーサーにしては、シンプルすぎる執務室でした。

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この第一生命館の接収までのスピード感が、すごい。
昭和20年8月14日 ポツダム宣言受諾
8月30日 マッカーサー元帥が専用機「バターン号」で厚木海軍飛行場厚木に到着し、横浜の「ホテルニューグランド」へ進駐
9月6.7日 GHQが「第一生命館」に来社。矢野一郎常務取締役が面接して社屋の説明をし、図面や資料を提供
9月8日 マ元帥は、帝国ホテルでの昼食会に先立ち、同ホテル社長の案内で20分間ほど周辺を視察。その際、日比谷の交差点を渡ったときに一番目立った「第一生命館」が目にとまり、部下を従えて「第一生命館」に来社。6階の社長室、貴賓室などを見た後、GHQ用庁舎として「接収」することをイーストウッド代将から口頭で通告される
9月10日 日本政府から正式に「第一生命館」の接収通知、明け渡しの期限は9月15日正午。 
9月15日 「第一生命館」をGHQに引き渡し。その後、6年10か月にわたり接収

なお、昭和21年には民政局が置かれ、この民政局において、2月4日から12日までのわずか9日間で、日本国憲法の原型であるGHQ草案が作成されたことは、あまりに有名です。
 
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ダグラス・マッカーサー元帥の座っていた椅子。民主主義の成熟度について「アメリカがもう40代なのに対して日本は12歳の少年、日本ならば理想を実現する余地はまだある」と述べ、物議を醸しました。私見ですが、当初は、敗戦国である日本の軍部やその技術力を弱体化させる一方、民主主義を浸透させ、日本国民に食料を行き渡らせるというのがGHQの役割で、それを忠実に実行したのだと思います。だからこそ、本来、日本はアメリカ、イギリス、中華民国、フランス軍を中心とする連合軍の占領下であるはずにもかかわらず、アメリカ一国による膨大な食料援助を、マッカーサーが引き出せたのではないでしょうか。またその後の朝鮮戦争がきっかけとなり、日本、特に沖縄がその中継基地として重要な役割を果たし、また警察予備隊の必要性から、日本の経済力を強めることも西側諸国の利益と一致したことが、日本の重工業が進展できた一員なのでしょう。

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かつては「マッカーサー元帥記念切手」などが発行され、吉田茂首相は「名誉国民」の称号を与えることも検討しました。戦後の日本におけるマッカーサーの絶大な人気は、GHQからの圧力により、日本のマスコミにおける「マッカーサーブーム作り」があったためとの見方もありますが、実際、政治力を使って強引にアメリカ政府に、日本へ小麦やミルクの緊急大量食料援助を認めさせた功績があってのことでしょう。

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第一生命ビルが返還されたときには、「あの」マッカーサー元帥、GHQの本部に入れるということで、当時のマスコミは興奮気味に報じているのが残されていました。なお接収中の賃借料は年間約7百万だったそうです。それが高額か定額かはなんとも言えませんが。

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このマッカーサー記念室ですが、2012年の公開を最後に、ずっと非公開が続いていました。というのも永久保存するために、現物の傷みを最小限にするためです。たまたま2015年は6日間の特別公開に出会えたことに感謝するとともに、きちんと歴史的財産を残そうとする、第一生命の深い考えに賛同しました。

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第一生命館は、歴史的建物ではあるものの、通常の近代的な都心型オフィスビルとしての役割も果たしています。マッカーサー記念室は6階にありますが、そのフロアには通常の会議室等があります。社員の方に聞いてみましたが、通常は閉鎖しているけれども、面する廊下は普通に通っているそうです。

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廊下だけみたら、極めて普通のオフィスビルでした。

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北欧女子オーサが見つけた日本の不思議 オーサ・イェークストロム著

アメブロ総合ランキング第1位の超人気ブロガーの、4コママンガが書籍化されたものらしい。著者は、北欧スウェーデン生まれの、日本のアニメと漫画好きの女子オタク漫画家。写真も掲載されていますが、30才にして、コスプレ好きらしく、けっこうカワイイかも。日本に定住して、その日常を描いた コミックエッセイです。
 
日本で活動している外国人漫画家は何人もいらっしゃると思いますが、4コマ漫画を描いている人は初めてかも。漫画の内容は基本的に日常エッセイですが、日本人との感覚の違いが中心になっており、普段意識してないところに隠れている日本の意外な面白さを教えてくれます。
・マンガ好き外国人にとっては天国みたいな東京! 
・コンビニのおにぎりが便利すぎる!
・日本の女子が何でも「可愛い」と言うのはなぜ?
・ホストの髪型はアニメみたいで素敵! 
・日傘を使うようになったら私も立派な日本人!?
 
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「クールジャパン政策」などといって、高尚な作文したり、拳を振り上げて膨大な予算を使うのもありかもしれませんが、かえってこういう草の根的な外国のファンを増やすこと、各国とのパイプを作りネットワークを強固にしていくことこそが日本の将来のためになるのではないか。

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神々の彫像 アンコール・ワットへのみち いわき市立美術館 カンボジアへ行きたくなる

神々の彫像 アンコール・ワットへのみちが、いわき市立美術館で展示されています。当時のヒンドゥー教の石像が展示の主役です。ヒンドゥー教は、現在インドやネパールで多数派を占める民族宗教ですが、アンコール・ワット遺跡が栄えた12世紀まで、クメール人によるアンコール王朝(現在のカンボジア)は、ヒンドゥー教が主役でした。

<15秒CMは、コチラ>
https://www.youtube.com/watch?v=uMngRbB3kb0
CCI20150725

中心となる三大神は、ブラフマー神・ヴィシュヌ神・シヴァ神とされ、一体をなすとされています。
ブラフマー:宇宙の創造を司る神
ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神
シヴァ:世界の破壊を司る神

ヒンドゥー教もギリシャ神話のように、神の数がとにかく多い。三大神にとどまらず、有名なのだけでも、6つくらいあります。
クリシュナ:ヴィシュヌ神の化身。
ラクシュミー:ヴィシュヌ神の神妃、富と幸運の女神
パールヴァティー:シヴァ神の神妃
ガネーシャ:シヴァ神の子供で象の頭を持つ神 
ハヌマーン:外見が猿の神
インドラ:雷神、天空神

会場にはアンコール・ワットのイメージビデオが流れており、遺跡の巨大さと神秘性が映し出されていました。こんなの見ていたら、どうしてもいつかカンボジアに行きたくなりました。

<イメージビデオは、コチラ>
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龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン 加治将一著

1867年12月10日夜、坂本龍馬の斬殺。通説では、犯人は新撰組もしくは京都見廻組といわれています。しかしそれにしては、矛盾と謎が多すぎる。なぜ北辰一刀流でかつ警戒中の龍馬が刀も抜けなかったのか?なぜ現場の目撃者が出てこないのか?中岡慎太郎は二日間も生きたというのに証言が一貫していないのはなぜか?なぜ目と鼻と先にある土佐藩邸から侍が出てこなかったのか?ヒントは、龍馬斬殺の直前に書いた、最後の手紙にあります。そこに記された暗号を読み解くことで、龍馬暗殺犯だけでなく、さらには幕末維新の真相を暴いています。

素朴な疑問だけれど、どうしもこれまで理解できなかったのが、脱藩した下級武士たちが何故自由に動きまわり、海外に行き、時代を動かす力を持てたのか?ということ。その答えは、人脈・黒幕・資金提供者が「英国・フリーメーソン」、坂本龍馬や五代友厚らが、資金提供者の意を受けた「スパイ」だったから。そう仮定していくと、いろいろな疑問が、「なるほど、そうか!」と解け始めます。

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筆者の推測と歴史的検証を(乱暴に)要約すれば、イギリス及び貿易商(武器商人)トーマス・グラバーをはじめとするフリーメーソンが、日本に介入し、龍馬を利用し暗殺した。それは個人的な野心からではなく、世界のパワーバランスの中で、イギリスによる「日本植民地化戦略の一環」として明治維新が起こされることになります。

日本を植民地化する手法は、植民地化しようと狙っている国の若者を自国に留学させ、教育・洗脳し、自国のエージェントとして送り帰し、自分たちは背景に退きエージェントたちによって自国を植民地化させる、というものです。坂本龍馬や五代友厚らがこの役割を担いました。これにより自国民が自分の国を植民地化するという、奇妙で奇怪なことを起こすことができます。これは、「国破れてマッカーサー 西鋭夫(著)」に書かれていた、第二次大戦後のGHQの占領政策とほぼ同じです。歴史は繰り返されるといいますが、真の意味で過去の歴史を理解していないといけないと改めて思いました。
 

幻のオペラ 白狐(びゃっこ) 千の証言展

東京音楽学校(現・東京芸術大)から学徒出陣し、終戦を知らないまま終戦から6日後に、拳銃で自決した神戸市出身の村野弘二さん。未完のまま終わった村野さん作曲のオペラ楽譜とSPレコードが遺族宅で見つかりました。そのオペラ「白狐(びゃっこ)」の楽譜とレコードが、第一生命本店で開催されている「千の証言展」で展示されていました。

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戦後70年をテーマにTBSと毎日新聞が共同で展開する「千の証言」の取材の中で見つかったそうです。戦争の記憶がどんどん薄れていく中、当時の体験を証言として募り、次の世代に伝えていこうというプロジェクトだそうです。2015年6月からTBS放送センターや伊藤忠青山アートスクエアで開催されてきましたが、第一生命ギャラリーで開催されているのを見る機会がありました。

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白狐は、東京美術学校を創設した岡倉天心がオペラの台本として書いた英語作品が原作です。これに曲をつけたのが22歳でフィリピンで亡くなった村野弘二さんです。作品の評価は高く、同級生の作曲家、團伊玖磨(だんいくま)氏らに絶賛されていたそうです。

<TBS千の証言~幻のオペラを追う 音大生の学徒が残した曲>
http://www.tbs.co.jp/news23/feature/f201506180000.html 

<歌劇白狐 キツネの「こるは独唱」 岡倉天心原作・村野弘二作曲>
http://mainichi.jp/movie/movie.html?id=882897205002 

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『もっと知りたい 金沢ふるさと偉人館 91人の偉人たち』 次世代を担う子どもたちへ 20人を超える地域の偉人を顕彰

金沢ふるさと偉人館は、石川県金沢市にある「郷土が生んだ優れた先人」を顕彰し、その業績を広く伝えるための博物館です。1993年の開館時は、金沢市ゆかりの人物5人を紹介していましたが、さまざまな分野で国際的国家的業績をあげた人びとを加え、現在では20人を超える人物の常設展示を行っています。特定の人物でなく、地域が輩出した複数の人物を対象として顕彰する施設は珍しい。
 
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金沢は、藩政後期から今日まで、さまざまな分野にわたり多くの先人を生み、育んできました。特に、明治期においては、新しい時代の幕あけとともに、国内外に優れた業績を残し、世界に誇れる「ふるさとの偉人」を輩出しています。特にナンバースクールという旧制高校があったことの意義は大きいと思います。金沢市には、旧制第四高等学校が置かれ、偉人の多くはこちらの出身者でした。ちなみに第一高等学校は東京、第二高等学校は仙台、第三高等学校は京都、第五高等学校は熊本、第六高等学校は岡山、第七高等学校は鹿児島、第八高等学校は名古屋です。

金沢ふるさと偉人館は、こうした先人たちの中でも、(金沢で)よく知られている代表的な人物について、資料や著作の展示、パネルによる解説などにより、その生涯や業績などを広く紹介する人物館です。特に、次代を担う子供たちには、見学や体験などを通じ、その偉業と生き方を知ると共に、こうした先人たちの研究の拠点ともなることを目的とするものです。

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小中学校の遠足先・郷土史調べ等に利用されているそうです。

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人物の生き様を紹介をすることによって、地域の歴史を知り、地域を好きになることによって、共通の価値観を持つことができます。共通の価値観を持った次世代の子ども達が育つことによって、地域を愛し、地域のために汗をかこうという雰囲気もが醸成されるでしょう。その意味では特定の人物でなく、地域が輩出した複数の人物を対象として顕彰するほうが、より効果的だと思います。

当初は偉人5人からスタートしたそうですが、遺族等からの貴重な資料の寄附が集まり、現在では20人を超える人物の常設展示を行っています。こちらの施設は、金沢市から指定管理により財団法人が運営していますが、毎年一定の指定管理料が必要になります。また資料を収集し、魅力的な展示とするための、精力的な学芸員個人も必須です。それらを支える市民の意思が、この施設を成り立たせているといってもよい。

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こちらでは『もっと知りたい 金沢ふるさと偉人館 91人の偉人たち』という冊子を配布しています。これは、金沢市が2012年に市の独自予算で、金沢ふるさと偉人館に委託して、小学生向けに郷土人物伝を編集・発行したものです。

2013年4月には、この『もっと知りたい 金沢ふるさと偉人館 91人の偉人たち』が、金沢市内の小学生に配布され、教材として使われているそうです。この91人のなかには、いわゆる体制順応型の人物もいれば、体制批判的人物も含まれているようです。紹介スペースには一人2ページが割かれているものから、1ページに10人までさまざまですが、いずれも金沢、もしくは日本の歴史や産業に貢献してきた人達です。
 
こうした文化事業は、時間も手間もオカネもかかります。しかも成果がなかなか見えにくい。したがって行政としても政治としても、やりにくい。しかし地域の子ども達の、先人達への畏怖や尊敬、地域が歩んできた歴史等を知ることは、まちの将来の強さにつながります。この金沢市の遠大な取組みに強く賛同します。
 
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<収録されている金沢ゆかりの人物>
【科学】
高峰譲吉、桜井錠二、木村栄、藤井健次郎、飯盛里安、(その他:大野弁吉、大屋愷あつ、井口在屋、高橋順太郎、辰巳 一、田中□吉、山崎延吉、原龍三郎、冲中重雄)
【文学】
徳田秋声、泉鏡花、室生犀星、中西悟堂、(その他:尾山篤二郞、小松砂丘、島田清次郎、中野重治、鶴彬、長沢美津、中原中也、井上靖、水芦光子)
【学問】
三宅雪嶺、鈴木大拙、西田幾多郎、藤岡作太郎、(その他:石川舜台、長尾巻、赤羽萬次郎、井上友一、桐生悠々、細野燕台、中田邦造、米山久子、駒井志づ子)
【教育】
黒川良安、関口開、北条時敬、加藤せむ、(その他:小川直子、納富介次郎、メリー・ヘッセル、黒本稼堂、山本良吉、日置謙、石原堅正、赤井米吉)
【芸術】
谷口吉郎、北方心泉、松田権六、(その他:竹久夢二、魚住為楽、玉井敬泉、吉田三郎、木村雨山、氷見晃堂、高光一也、寺井直次、蓮田修吾郎)
【産業】
清水誠、津田米次郎、安宅弥吉、八田与一、(その他:関沢明清、中橋徳五郎、早川千吉郎、野口遵、小倉正恒、林 安繁、藤本吉二、畠山一清)
【地域】
小野太三郎、横山隆興、高多久兵衛、森下八左衛門、(その他:西川吉平(長右衛門)、森田柿園、長谷川準也、水登勇太郎、木谷吉次郎、井村徳三郎、三浦彦太郎、安藤謙治、浦上太吉郎、荒崎良道、松本佐一郎)
 
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重ね地図シリーズ 東京 マッカーサーの時代編 トレーシングペーパーを本に

進駐軍がいた昭和20年代の地図の上に、現代地図をトレーシングペーパーに印刷して重ね合わせる「重ね地図シリーズ」です。古地図と現代地図を比較して、左右対称に配置する本は多数ありますが、トレーシングペーパーで重ねあわせることで、ピンポイントで今の場所が、昔、何があったかを知ることができ、画期的な(ある意味、古典的手法ですが)本だと思います。
 
昭和20年、日本は連合国に降伏し、太平洋戦争が終結しました。ほどなく最高司令官としてダグラス・マッカーサーが着任。GHQのトップとして、神とされた天皇をも超える権力を手に入れた彼の手で日本はスクラップ&ビルドされていきます。在任期間中は、ほとんど日本を離れることなく、日本統治に腐心したマッカーサーですが、日本びいきとされ(少なくともそう捉え、感謝していた日本人も多かった)後年、更迭されてアメリカへ帰国するときには20万人の日本人が見送ったといいます。ここまで日本人の心に残ったアメリカ人もいなかったのではないでしょうか。敵国の最高司令官でありながら、統治者として天皇と並んで写真に収まった男、マッカーサー。マッカーサーは戦後の焼け野原の東京に何を壊し、何を造り、何を遺していったのか。それを、古地図と現代図とを比較することで「マッカーサーの時代」を振り返ることができます。まさにタイトルどおり、「2枚の地図に重ねて過去に思いを馳せる」。
 
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かつての皇族(天皇傍系)・貴族(大名家)・侯爵邸(明治の元勲等)の広大な屋敷跡地が、官公庁・ホテル・民間開発されていったのがよくわかります。また現在の大病院が、過去に何という病院であったかを知ることで、病院の体質・風土を推測することもできます。例えば手厚い看護で有名な聖路加国際病院ですが、欧州系でなく独立路線で米国系の教育システムをとっているのが不思議でした。それもかつては米陸軍第49病院として使用されてきたという経緯があるからなんですね。腹に落ちました。

それにしても東京の市電網は世界有数であった。このようなインフラが整備された都市が発展しないはずがない。これを作りあげた先人の歩みに脱帽です。

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曹洞宗大本山 永平寺

曹洞宗大本山 永平寺(えいへいじ)は、福井県永平寺町にあります。曹洞宗では、ここと總持寺が双璧をなす、大本山です。なおその意味は「永久の和平」だそうです。

曹洞宗の宗祖は道元。14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺で、仏門に入りました。「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っているはずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問を持ちます。そして、臨済宗の宗祖である栄西が建てた建仁寺に教えを請い栄西の直弟子である明全に師事しました。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考え、渡宋します。宋での修行で、ひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」の影響を受けて、4年あまりで帰国。日本へ戻ってから、道元は旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭ってしまいます。

旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒であった越前国の土豪・波多野義重の請いにより、義重の領地のある越前国志比庄に吉祥山永平寺を開山します。度重なる戦災や火災に見舞われているので、当時の建物はなく、現存の諸堂は全て近世以降のものだそうです。 正門をくぐることができるのは、修行僧が入門するときと、卒業していくときの2回だけだそうです。もちろん見学者は不可。 
 
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参道は、さわやか(厳かではない)な木漏れ日に満ちていました。京都の喧騒からは打って変わって、あまりに静か。比叡山から迫害されたとはいっても、電車で1時間以上もかかるような地に開山しなければならなかった。それだけ宗教上の対立の迫害が激しかったということなのでしょう。

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修行僧180名が永平寺に起居して、2年間の修行を積んでいます。永平寺では修行僧を雲水と呼ぶらしい。行雲流水…雲のように場所を定めず、水の流れのように留まらず、ただ一心に修行。

修行僧は定められた規則に基づき毎日の修行に励みます。修行僧にはそれぞれ配役が与えられますが、その配役には、本堂の係や法要の進行係といったいわゆる僧侶らしい役割の他にも、受付係や来客係、宿泊者の係や火防係、食事係や風呂の係まであります。いったん配属されたら向き 不向きに関わらず、その役割を一心にこなすのが大切な修行です。またその合間を見て自らの坐禅修行をします。与えられた配役は一定期間ごとに更新され、人事異動のように、新たな配役がいい渡されるそうです。
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延暦寺ではまさに「立って半畳、寝て一畳」が体現されており、修行僧が起居する僧堂では、1人につき畳一畳ほどの「単」と呼ばれるスペースが与えられ、そこで眠り、食事をし、座禅もします。畳1畳では布団が引けないので、布団をタテに2つ折りにして、シュラフのようにして眠るんだそうです。

これが座禅用座布団、「あんこ」と呼ばれているものです。それぞれ修行僧個人の持ち物のようで、名前が記載されていました。

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永平寺に(京都の寺院のような)きらびやかな国宝や重要文化財は、多くありません。それであってもNHKの除夜の鐘はなぜか、この永平寺。
 
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 お土産に般若心経を頂きました。漢字のみの文章とともに、読み下し文がついているので、なんとなく意味がわかったかのような錯覚。

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吉田みきと プロフィール

ふるさとの福島県いわき市で、市議会議員として活動しています。いわき市は、震災後、複層的な問題が山積しています。公認会計士・一般社団法人日本アンガーマネジメント協会 認定 アンガーマネジメントファリシテーターとしてのキャリアを生かし、フレッシュな視点で問題点を洗い出し、解決策を提案していきます。

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